日本語を国際普及にするには
小6 わかば(akahime)
2026年5月3日
国語として日本語が自分の言語を見るときは、皆日常の文法などは知っているという前提で、完全に内側の視点で見ている。日本語は外国人によって学ばれ、使われた経験がないために、植木屋を十年も入れなかった庭みたいで、めちゃくちゃに枝が伸びているように、整理が行われていないという状態です。だから、日本はこれからどうやって日本語を刈り込んで行ったら、国際普及の日本語になれるか考えなければならない。
私の学校の一年生の友達に、海外出身の男の子がいる。イントネーションや単語は大体あっていて、暗記している。しかし、その子はあるとき
「昨日、お姉ちゃんで遊びに行った~!」
と無邪気に私に教えてくれたことがある。周りの子に
「「で」、じゃなくて「と」でしょ。」
と注意されていたが、その子自身はきょとんとして、何について指摘されているのか、自分が言い間違いを犯したのかすらわかっていない様子だった。多分、文法や、仕組み等が、母国語とあまりにも違いすぎて混乱してしまうのだろう。その言い間違い自体は、可愛くてちょっとしたことなのだが、その間違いが指摘され、言いたかったことの話題にならずに、完結してしまっている。実際はそんなことは無いのかもしれないけど、勝手に可哀そうだなぁと同情してしまう。私は英語に興味があり、勉強しているのだが、2年間ほどしか学習していない私でも、文法さえ覚えれば、あとは熟語を当てはめていくだけで言いたいことを表現することができるようになった。しかし、日本語は語尾に何かをつけたり、単語と動詞などをつなぐ『を』『に』。色々と複雑な作りになっている。例えば『美味』ということを表現するだけでも、『おいしい』『おいしいね』『おいしいよ』『大変美味ですね』などと、たくさんの言い方があり、それぞれに微妙なニュアンスの違いがある。美味と表現すると、教養のある大人な感じがする。また、同じ美味しいでも、進めていたり、一緒に食べていたりなどとそれぞれに適した情景が頭の中に浮かぶ。日本語は表現のバラエティに非常にたけていると思う。
母から私の小さい頃の話を聞いた。あるドリルを解いていた時に、私はオオカミをオウカミと書いてしまい、母に
「なんでオウカミじゃなくてオオカミなの?」
と聞いたことがあるらしい。また、
「どうして『に』『を』じゃなくて『は』を使うの?」
というような疑問を私はたくさん持っていたそうだ。しかし、それに対しては母はうまく答えることができずに、
「そういうものだから……」
と言ってしまったらしい。確かに、実際日本語には直感的な部分がある。まるで何も書いていない真っ白なパズルのように、はめてみないと、その文がおかしいことに気づけない。理屈ではなく、勘でピースを当てはめていくのである。
言葉とは、人間にとって相手とつながるための大切な道具である。だから、小の虫を殺して大の虫を生かすというように、より分かりやすく、今の言葉に満足せずに、改良していく必要がある。