あくなき集団
高1 のんの(aohita)
2026年5月2日
長文では、キリスト教の中でユダが「裏切者」として存在することで、集団が一つの形として完成したと説明されていた。つまり、人は集団の中で共通の敵を作ると、安心したり結束したりしやすいのである。確かに、学校生活を見ても、そのような場面は多い。クラスの中で一人だけ浮いている人がいると、周りはその人を話題にして盛り上がることがある。また、部活でも、負けた原因を一人に押し付けることで、他の人たちは安心する。僕は、誰かを悪者にしなくてもまとまれる集団の中で生きたい。
まず第一に、失敗をすぐ他人のせいにしないことが大切だ。僕は小学生のころ、サッカーの試合で負けると、よく仲間のミスを心の中で責めていた。「あのパスミスがなければ勝てたのに」と考えていたのである。実際に口に出したこともあった。しかし、自分自身もシュートを外していたし、練習を真面目にやっていなかった日も多かった。それなのに、自分のことは棚に上げて、他人だけを責めていたのである。あるとき、試合後にコーチから「負けを誰か一人のせいにしているうちは強くなれない」と言われた。その言葉は強く印象に残った。確かに、誰かを悪者にすると、その瞬間だけは気持ちが楽になる。しかし、本当は煙の原因は自分たちの中にもある。そこから僕は、失敗したときほどまず自分を振り返るように意識した。すると、不思議と周りへのイライラも減り、チームの雰囲気も良くなった。誰かを責めるより、自分を改善した方が次につながるのだ。
第二に、集団の中で本音を言いやすい空気を作ることも重要だと思う。人は不満や不安をため込むと、その感情を誰か一人に向けてしまいやすい。だからこそ、普段から自由に意見を言える環境が必要なのである。例えば、学校のグループ活動では、意見を言わないまま作業を進めると、失敗したときに「あいつが悪い」という話になりやすい。しかし、最初から全員で話し合い、「ここはどうする?」と確認しながら進めれば、一人だけが責められる状況は減る。歴史を見ても、集団が敵を作ることでまとまろうとした例は多い。国同士の対立でも、国内に不満がたまると、外部の敵を強調して人々を団結させようとすることがある。長文でも、集団は「裏切者」を必要とすると書かれていた。しかし、それは集団が弱っている証拠でもあるという指摘が印象的だった。つまり、本当に安定した集団なら、敵を作らなくてもまとまれるはずなのである。
学校でも似たようなことはある。例えば、クラスで先生の悪口を言っていると、その場は妙に盛り上がることがある。「分かる分かる」と言い合うことで、一時的に団結した気分になるからだ。しかし、冷静に考えると、それは本当の友情ではない。ただ悪口という接着剤でくっついているだけである。もし悪口がなくなれば、その関係もすぐ崩れてしまうかもしれない。まるで期間限定イベントのチームみたいなものだ(笑)。だから僕は、「敵は百人の外より一人の内にあり」という言葉が当てはまると思う。外の敵よりも、自分の中の弱さや未熟さこそが本当の問題なのだ。
確かに、共通の敵がいると集団はまとまりやすい。スポーツでも、「絶対にあのチームに勝つぞ」という気持ちが団結を生むことはある。また、ライバルがいることで努力できる面もあるだろう。しかし、「悪の集団は長く持たない」というように、それだけに頼る集団は長続きしないと僕は思う。僕は、誰かを悪者にしなくてもまとまれる集団の中で生きたい。