生活の便利さ

   中2 あかえか(akaeka)  2026年5月2日

 地球上には浪費文明に侵されない生活を営んでいるところがある。私はそんな土地に行き、日本の大都会がいかに人工的か、彼らが人間らしく自然と調和しているかを味わった。そのほうが日本の生活より上等だと痛感した。思い知らされたのは、人間は生きていくにはわずかなもので足りるということだ。「人は生きていくために何を必要とし、何を必要としないか。」根源的な疑問の前に自分を立たせてみると、自分が便利や快適によって余計なものを持たされているか、それらの過剰により生を見えなくしているか知らされる。

 機械などの人工的なものを用いた便利な生活はよい。例えば、私は、ほとんど毎日スマートフォンや自動車などの人工的なものを使っている。特に、自動車は習い事で送迎をしてもらうときには欠かせないもので、車を使うことができないときにはコミュニティバスや電車などを利用している。もしそのような公共の乗り物や自家用車がなかったら、自分の住んでいない市や県などで習い事をしていた場合、キャンセルしないといけなかったり、遅刻してしまったりする状況になってしまうと思う。

 しかし、機械化されていない生活もよい。例えば、私が中学1年生の時に国語の授業で学習した長文の中には、不便だからこそ得られる良さについての内容のものがあった。その文章の例には、わざと幼稚園の園庭をでこぼこの設計にしたり、介護施設の階段を急にするなどし、身体能力の向上を促すことができるということが書いてあった。また、ある大学生は普段通学するために使っていたバイクが使えなくなってしまい、やむを得ず徒歩で通学すると、お気に入りのお店を見つけることができたという事例もあった。私も、普段車で走っていく道を歩いてみると、こんなお店合ったんだという発見や、道端に咲いている草花を見つけたりと、たくさん楽しいことを体験することができた。

 確かに、人工的なものを用いた便利な生活も、機械化されているものがほとんどない昔ながらの生活もよい。しかし、最も大切なことは、「いかに飽きずに続けるかではなく、飽きることと続けることをいかに両立させるかが大切だ。」という名言があるように、様々な生活の仕方を生かし、今直面している問題をどのように解決していくかを考えていくべきだ。