自由な日本語(清書)
小6 あえたし(aetasi)
2026年5月4日
日本語は、日本民族によってしか使われたことのない内部の言語、つまり部族言語だ。日本語が国際普及するに従い外の人の影響力が日本語にも及んでいるが、まだ外の視点を取り入れたかりこみが部分がない。日本語は人口的な整理がされないまま、明治から今まで百年間に驚くほど変わり、戦後四十年間でもどんどん変わっているという野放図な自然言語である。ぼくが一番印象にのこったのは、日本語が他の言語のようにあまり人工的に整理されていないということだ。
むかし幼稚園に通っていた頃のことだ。ひらがなで書きましょうというテストがあった。一つ目の問題で筆箱の絵が描いてあった。ぼくは筆箱は筆を入れる箱だから「ふではこ」だと書いた。すると先生は
「これは、ふで『ばこ』と読んで、『ば』は濁っているのよ。」
と優しく教えてくれた。しかしぼくは心の中に疑問がわいた。それはなぜ言葉は濁るかだ。気になって先生に聞いてみると、先生は分からないのかだまってしまった。
さらに日本語には発音と書く時にひらがなが異なる場合がある。例えば、お父さんのように、長い「お」の音を「う」と書く時などだ。しかし、このルールにも例外があり「お」と書く言葉を覚えるための歌を教わった。
「とおくのおおきなこおりのうえを、おおくのおおかみが、とおずつとおる」という歌だ。
ぼくは、ネイティブスピーカーでも歌にして丸暗記して覚える必要があるなんて、日本語は難しいと思った。
日本語にはたくさんのカタカナ言葉があると気がついた。外来語であればなんでもカタカナで表してしまうからだ。例えば、パスタの名前である「カルボナーラ」だ。イタリア語の音をカタカナに置き換えていて、当て字をしている。しかしお母さんが台湾に来てパスタを注文しようとしたときにメニューを見て、とても困ったという話をしてくれた。
メニューに書かれていたのは「海鮮海老唐辛子油麺」や「バタークリームベーコン麺」などと材料名を並べただけのものだった。中国語では料理名もすべて中国語に訳しているのだ。なぜなら中国語にはカタカナにあたるものがないからだ。
ぼくは日本語が外来語をとにかくカタカナで表してしまうのは見直すべきだと考える。なぜならカタカナに直しても外国語の音のままなので意味が伝わらないからである。外来語の中でも、日本語で表せないものや考えであればカタカナを使ってもよいが、日本語に訳せるものであれば日本語で表すべきでないか。もしカタカナを安易に使いすぎてしまうと、ますます筆者の言う野放図な変化が進んでいくのではないか。
日本語は自由な言葉だと分かった。なぜなら自然にどんどん変化していき、明確な文法がないからだ。しかし自由すぎると、日本語が複雑で難しくなってしまうと考えた。