価格というラベルの剥がし方

    ()  年月日

 数年前、森林関係研究所に勤務している研究員のところに、ある村の村長が訪ねてきた。その村の森には、それほど多くはないが、今では希少価値になった。天然のヒノキが大きく育っているのだと言う。村長の問いであった、そのヒノキを一番高く売るにはどうするのが良いのかということについて、研究者は玄関の表札にして売るのが有利だという答えを出した。ところがそう話すと、村長は極めて不愉快そうな顔をした。樹齢二百年を超えた大木が、柱になった後も、堂々と建物を支え続け、生き続ける姿を思い描いていた村長には、それが細切れにされることなど、容認できることではなかったのである。山の木が建築物に変わるまでの間には、次元の異なる一つの過程が重なり合っているのだろう。それは使用価値と商品価値の違いによって命じるずれ、と言っても良いが、木自体が持っている価値を生かすか、商品としての木の価値を優先するかを巡って、木に携わるものたちもまた動揺してきた。山の木を単なる商品にしてしまわないためには、職人的な腕が生きていなければならない。大きな森を育てていこうとする村人の腕や製材職人の腕、木の特性を生かしていこうとする大工の腕などが健在である間は、木と人間は一体化して木の文化を作り続けることができる。中古ショップに行けば、数百円で投げ売りされているかもしれない。あるいは、ただのゴミとして無慈悲に捨てられてしまうかもしれない。しかし、私にとってそれは、何億円積まれて「これで手を打ってくれ」と頼まれても絶対に渡したくない大切な宝物だ。私たちは普段、あらゆるものに「値段」というラベルを貼り、その価値を決めがちだ。高いものは最良であり、安いものはそれなりである、と。しかし、数字にされた瞬間に消えてなくなってしまう、いっそう本質的で大切な価値があるはずだ。私は、ものの価値をお金という冷たい物差しだけで決めるべきではないと考える。 理由は一つ目に、ものにはその人にしか分からない「思い出や強い感情」が残るからだ。私の手元には、小学校の図工の時間に作った、形がじゃがいものようにがたがたな粘土の小物入れがある。今の目で見てもお世辞にも上手とは言えず、お店で売っている既製品のような綺麗さや、実用的な便利さは微塵もない。リサイクルショップに持っていっても、店員に苦笑いされて値段がつかないのが関の山だろう。しかし私にとっては、どんなに高級なブランドの家具よりも価値がある。これを見るだけで、放課後の静かな図工室の匂いや、ヘラを使って泥遊びのように夢中で粘土を削った指先の感覚が昨日のことのように思い出される。完成したときに先生が少し大げさに褒めてくれた言葉、友達と見せ合ってその出来栄えに笑った記憶。それらすべての「泥臭い時間」と「気持ち」が、この小さな粘土の中に強く閉じ込められているのだ。もし私たちが「いくらで転売できるか」という市場の基準だけで世の中を見てしまったら、こうした過去 of 自分との繋がりは、ただの「燃えないゴミ」として処分されてしまうに違いない。 理由は二つ目に、ものの価値は、それが完成するまでに使われた「手間や惜しみない心」によって決まるからだ。例えば、小学校の卒業式を前に、クラスの友達と放課後に居残って作った大きな寄せ書きの模造紙を思い出す。それはただの紙とペン、そして時に悪ふざけのような落書きの集まりかもしれないが、そこにはお金では絶対に買えない重みがあった。一枚の紙を埋めるために、私たちは何度も長い話し合いを重ね、相手の顔を思い浮かべながら、一文字ずつ丁寧に色を塗った。もしこれが、学校側が業者に依頼して作った既製品のお祝いの品であれば、見た目は一段と整っていて立派だったかもしれない。しかし、自分たちの手を絵の具で真っ黒にし、失敗しながらみんなで時間を忘れて没頭したあの「時間」そのものが、その紙に二つとない特別な価値を与えていたのだ。何でも効率よくお金で解決することが「正解」とされがちな世の中だ。しかし、誰かのためにわざわざ手間をかけ、知恵を絞って一生懸命になった経験は、数字には表れない温かさを生む。効率や損得をすべて無視して、誰かのために何かをしようとする純粋な気持ち。その不器用なプロセスのなかにこそ、お金という基準ではとても測りきれない、人間らしい豊かな価値が隠されている。 確かに、今の競争の激しい社会においてお金は共通の基準として動いており、日々の生活を支える頑丈な土台であることは言うまでもない。しかし、最近の社会を見渡すと、あらゆるものを効率や数字だけで決めようとする「数値化の罠」に見事にはまっているように思えてならない。今、世の中では「コスパ」や「タイパ」という言葉が、まるで絶対的な法則のように唱えられている。何かを選ぶとき、それが「いくら得か」「どれだけ無駄がないか」という計算ばかりが先走ってしまい、その裏側にある作り手の血と汗と涙や、手に入れるまでの楽しい思い出が、無駄な贅肉(ぜいにく)として削り落とされているのが今の姿だ。このように、価値の基準をお金という一つの物差しだけに委ねてしまうことは、自分の心で「良し悪し」を決める感じる力を完全に放棄してしまうことと同じだ。すべてを数字で割り切ろうとする冷徹な態度は、結果として、私たちの人生を、効率的ではあるが機械のように冷たくて、誰のものでも代わりがきくような寂しい生活に変えてしまう。 もちろん、お金のことを全く気にせずに生きることは、今の世の中では難しい。しかし、「子供は大人を小さくしたものではなく、それ独自の価値を持っている」という名言があるように、世の中のあらゆるものや出来事もまた、金銭的な事情では測れない、他に代わりがない大切な価値を秘めている。小学校の頃、友達と特別な高揚感のなかで夢中で拾った、あのただの石ころに感じた、ダイヤモンド以上の輝きを私は忘れたくない。私は、ものの価値を「お店での値札」ではなく「自分の心がどれだけ激しく動いたか」という基準で考えることが大切だと思う。お金という便利な道具をスマートに使いこなしつつも、決して財布の中身に自分の魂まで支配されてはいけないのだ。モノや情報が洪水のように溢れている今だからこそ、私は周りの流行に流されず、自分だけの確固たる物差しを大切にして、目に見えない価値の面白さを味わいながら生きていくことを、ここに強く誓いたい。