言葉の使い方

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  島国言語の特色の一つは相手に対しての思いやりが行き届いていることである。もう一つは話の通じが大変良いということである。そして、島国言語には大陸言語に比べて冗語性が少ない。

島国言語は相手に対する思いやりが前提となっているためお互い気楽に話すことができる。私は日本に住んでいるため、もちろん島国言語を使っている。特にああ、これが島国言語なのだ、と感じることがあるのは親友のSちゃんといる時だ。私とSちゃんは本が大好きでよく、Sちゃんと本を貸し借りして、その本の感想を伝え合っている。その時に、○○の場面の△△の言葉ほんと神だよねというような二人にしかわからないような会話をすることがある。具体的に言うと、「図書館の魔女~霆ける塔~」という作中に出てくるキリヒトという少年の「……ずるいなぁ。また、それですか……やりますよ。やればいいんでしょ。」という言葉が拗ねているようで可愛いというような感じだ。ほかの人からはわからない、Sちゃんだからこそ、信頼しているからこそ言えることだ。それは現代だけの話ではない。例えば、清少納言と定子の会話だ。定子が「香炉峰の雪はいかがでしょう」と尋ねた時に、清少納言が簾をあげ、定子が満足そうに微笑んだという話が枕草子の中に書かれている。なぜ、清少納言が簾をあげたのか調べてみると中国の詩人、白居易の「香炉峰の雪は簾を掲げてみる」という有名な一節があり、それを思い出した清少納言が定子の意図を察し、簾をあげたのだそうだ。これも、私とSちゃんの関係と同じで相手を信頼、理解しているからこそできる会話だと思う。

 しかし、的確な意思疎通をするためには大陸言語の方が適していると思う。島国言語というのはあくまでも私たち島国に住む人間以外理解することが難しい。もし、大陸に住む人が私たち日本人の会話を聞いたら驚くだろう。例えば「ちょっと貸してくれる?」という私たち日本人からすればごく普通の日常的に使うような言葉。これは大陸から来た人にとっては不自然な言葉なのだ。きっと、日本に来たばかりの大陸の人がこれを聞いたらそれを誰に貸すのかの誰にという部分が抜けているじゃないか!意味が分からないと思うかもしれない。大陸言語では絶対に主語が抜けるということがない。先ほどの言葉を大陸言語で言ったとすると「あなたは私にそのペンを渡すことができますか?」というようになる。大陸言語では主語がなければ通じないからだ。このように考えていくとどんな人にも伝えられるという意味で考えると島国言語よりも大陸言語の方が適切かもしれない。

 確かに、島国言語には気楽に話せるという良さがあり、大陸言語には適切に伝えることができるという良さがある。しかし、最も重要なことは「相手が理解できる言葉で話せば頭に届き、相手の使う言葉で話せば心に届く」というネルソン・マンデラの名言があるように相手と意思疎通できることだと思う。