想像力でとらえる

   高2 ヨーヨ(waoho)  2026年5月3日

 ロボットが本当に痛みや意識を持つかは科学的に証明できない。しかし、他者の痛みを想像する時、私たちは相手になり代わるのではなく、相手を「人間仲間」として結びつける想像上の自己を通じて心痛を感じる。この関係性をもった付き合いを続けるならば、相手がロボットであっても心ある「人間」となるのである。僕は、奪い合う社会において、相手の心に対する想像力の欠如は問題だと思う。では、その想像力が今の私たちに欠けてきているのはなぜだろうか。

 その原因は第一に、心の教育の伝統を忘れたからではないか。戦後、道徳教育を押し付けないという方針のもと、心の問題は個人に属するとみなされてきた。つまり、他者を思いやる倫理観は共通の規範ではなく、個人の自由に委ねられるべきだという風潮が強まったのだ。しかし、これによって私たちは、他人の痛みを我がことのように感じる訓練の機会を失ってしまった。なぜなら、他者の領域に踏み込むことは「お節介」として忌避されるようになったからだ。例えば、かつては地域の大人が他人の子供を厳しく叱るのが当たり前で、実際に僕も幼い頃、公園での木登りを知らないおじさんに怒られた経験がある。当時はただ怖かったが、今思えばそれは僕たちを本気で案じる想像力の表れだった。ところが、現代社会では無関心というバリアに隔てられ、困っている人を見て見ぬふりをすることが多い。したがって、心の教育を個人の問題とした結果、私たちは他者の内面を推し量る想像力の基盤を失ったのだ。

 第二の原因として、豊かな社会における使い捨ての文化の中で、物を大切にする心が失われたからではないか。すなわち、現代の消費社会では物質が溢れ、壊れたら直さず新しく買い替えることが当たり前となっている。あたかも、物だけでなく人間関係さえもが替えの利く道具であるかのようだ。このように物への感謝を忘れることは、その向こう側にいる他者への想像力を麻痺させることに直結している。例えば、農林水産省の推計によると国内の食品ロス量は年間約五百二十三万トンに上り、これは国連世界食糧計画(WFP)による世界援助量の約一・二倍に匹敵する。あるいは、私たちの消費のためにインドネシアの熱帯雨林が急速に伐採されている自然実例もある。つまり、身の回りの物を安易に使い捨てる文化が、物事の背景にある生命や他者を感じ取る想像力を根底から失わせたのだ。

 確かに、何を大切にするかという心の問題は個人の価値観に属することだ。しかし、「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えない。かんじんなことは、目に見えないんだよ」というように、真に豊かに生きるには目に見えない他者の背景を想像力という心で捉えることが不可欠だ。だからこそ、今一度心の伝統を見つめ直し、物への感謝を取り戻すことで、最初の「なぜ想像力が今の私たちに欠けてきているのだろうか」という問いに対し、一人ひとりが他者への想像力を胸の内に再生させていかなければならない。