5.2週 少年のころの桜は(感想文)清書

   小6 あかすな(akasuna)  2026年5月4日

 日本語は花便りの言葉も、微小感覚を表し分けてまことに富んでいる。ところが、散り初めのある日、枝を離れた花びらを見ていて、これが地面に達するまでのあいだの状態を、ぴたりと表す言葉がないことに筆者は気が付いた。似たような光景を、筆者は秋の信州で見たことがある。桜の花びらと、からまつの葉と、自然はついに言語の及び得ないものなのであろうか。もし日本語にそれがなければ、それは日本語の語彙の貧弱を意味するだろう。

 小学校生活では、自分の気持ちを上手く表現する方法を教わる機会が多かった。体育の振返りや、音楽の感想、国語の時の感想、というように感想に関する時に多く指導される。具体的には、「うれしかった」や「楽しかった」などと誰でも書けるような書き方はしないで、「何がうれしかったのか」、「何が楽しかったのか」と書くことだ。それは今までの五年間、毎年のように指導されていることであった。したがって、私は自分の心情を明確に表現しようとするようになった。しかし、それに適切な表現の言葉が分からなかった経験がある。例えば、うれしいときや嫌な気持ちの時、何かが原因でパニックになっているとき、を見た時など幻想的な情景など様々だ。私の体験で特に心に残っている思い出は、四年生の夏休みごろに高尾山に家族で訪れた時のことだ。登山で疲れていたせいか、頂上に行った時は、まるで空を飛んでいるかのような爽快感を感じた。また、頂上から見た景色は、息をのむほど美しい光景だった。そのため、この体験から私は、言葉では上手く表現できない感情気持ちもあるのだと思った。

 桜が地面に達する際の様子を言葉で表してみることにした。春の風がふわりと吹くと、桜の花びらは枝から静かに離れた。花びらは、まるで小さなピンク色のきれいな蝶のように、くるくると回りながら空を舞っていた。すぐに落ちるものもあれば、風に乗って遠くまで飛んでいくものもあり、その様子は千差万別でとても興味深かった。太陽の光に照らされた花びらは、きらきらと輝いて見えた。そんなきれいな桜の花びらを受け止めて願い事をしてから、再び放って楽しんでいる。桜の花びらを取って願い事をしたらかなうという説があるからだ。やがて花びらはゆっくりと地面に達し、道や川の上を春色に染めていった。桜は散ってしまうからこそ、その美しさがより印象に残るのだと思う。花びらが最後まで美しく舞っているから、春の景色がさらに魅力的に感じる。

 人間にとって言葉とは、決して万能なものではない。語彙が豊富も、自分の心情を完全に表現することは簡単ではないと思う。特に自然の魅力や、その時の気持ちは、言葉だけでは伝えきれないことがあると思う。私も高尾山で景色を見た時、胸がすっきりして気持ちが軽くなったが、その感覚をぴったり表す言葉は思い浮かばなかった。また、桜の花びらが風に乗って舞う様子も、「落ちる」や「降る」という言葉だけでは不足しているように感じた。生き物のようにふわふわと動き、一枚ずつ異なる動作をしていたのをこの目で確認したからだ。このように、自然には言葉では表現できない美しさがあるのだと思う。しかし、だからこそ人は自分なりに工夫して言葉で伝えようとするのではないだろうか。「百聞は一見にしかず」ということわざがあるように、実際に体験しなければ分からないことは多いと思う。それでも、自分の感じたことを少しでも相手に伝えられるように、これからも言葉を学び、表現を工夫していきたいと思う。