清書
中2 あかさふ(akasahu)
2026年5月4日
話し上手の人がいます。話し上手と呼ばれる人は、あるいは無意識のついにうまく「間」を取り入れている違いがあるように思います。
余韻とか余情、ふくみ、それらはすべて、「間」の活かし方にかかわっているように思えます。荻須高徳のパリの風景画で、忘れられない油彩があります。
ただ一点、遠景のとうらしきものに朱が入っていて、そこに向かって画面が収斂されていくのです。「間」のことを思うときに、私はよくこの朱色を見ます。
このように、「間」を入れることは大切です。しかし、入れすぎてもよくないし、入れな過ぎてもよくないです。
私の意見としては長期的な極端は良くないことであるということです。これには二つの理由があります。
一つ目は、長期的な極端にすると、失敗することが多いということです。
僕は最近一日に予定をたくさん入れました。午前中は英語と数学の勉強。午後は五時まで友達と遊び、その後英語の勉強。
英語はなんとか終わりましたが、数学はすべて終わりませんでした。友達と遊ぶことはできましたが集合時間に少し遅れてしまいました。
また勉強量もその日は一日に三時間以上やるつもりでしたが、それはとても難しかったです。
また、別の日、今度は何もその日に予定が入っていませんでした。何か外に出ようかなと思ったりもしましたが、結果的には出ませんでした。
出なかったことで、少し憂鬱な気分になってしまいました。極端で失敗したことはほかにもあります。運動や、友達付き合いでも。
一日だけでも極端はつらいものです。このように、極端に詰め込むことで悪影響を与えてしまうので、私は極端は良くないと考えました。
二つ目は、長期的な極端の成功例はとても少ないというところです。
例えば、投資について考えてみてほしいです。極端に投資をする人はそこまでいません。それにはリスクがとても高いというところがあります。
もちろん、お金を持っている人は、1000万円を普通に投資する人もいるかもしれません。
しかし、その人はあくまでたくさんあるお金の中のほんの少しを投資しただけかもしれません。全財産をかけて投資したわけはないでしょう。
もちろん、全財産を投資して成功した人もいるでしょう。でもそういう人も成功は一回や二回程度でしょう。
100回全財産投資して、90回も成功した人はいないでしょう。宝くじだって、100枚買って1枚あたったのを100回繰り返せるわけではないでしょう。
受験では、長期的になおかつ極端に勉強することがあります。しかし、それも長い目で見れば一度きりともいえるでしょう。
ずっと極端に生きていくのはタイムパフォーマンス的にも、コストパフォーマンス的にもとても悪いと思います。
だからこそ局長期的な極端は良くないと思います。
このような理由から私は長期的極端は良くないと考えました。もちろん、短期的な極端は使うところを見極めれば、
とても良い使い方ができるかもしれません。しかし、長期的な極端は精神的にも身体的にもとても疲れると思います。
また、極端にやった後は、たくさんの休憩をとるかもしれません。しかし、「多すぎる休息は、少なすぎる休息と同じように疲れさせる。」
という名言があるように、休息もすべてのことはほどほどにしなければ、大変なことがあります。
僕の嫌いな言葉に「明日やる」という言葉があります。この言葉は長期の極端を作り出すからである。
長期的な極端は人生を幸せにすることはない。もちろん、短期の極端は幸せを作り出すことはあるかもしれない。
だからといって、極端に生き続けるはとても良くないと思う。時に適度な休息をとり、時に頑張ればよいのである。