島国言語の特色のひとつは
中2 あさくに(asakuni)
2026年5月1日
要約:島国言語の特色は思いやりが行き届いていて、話の通じが大変良いことだ。それに対し、大陸言語は字と他の対立関係や言語・文法の明瞭さがすごさだ。しかし、どんな言語であろうと、家族間の会話は通人的であり、いわゆる島国言語の要素を含んでいる。だが、島国言語の代表格、日本語は家族という枠を超え、親密な集団でもこの現象がみられる。言語には冗語性、話の蛇足がある限り、多かったらくどい、少なかったらお頭が弱いと解釈されるのを避けられない。なので島国言語使用者は知らぬ間に冗語性を少なくし、頭がよさそうに話す。人々の言語に対する思いは冗語性が関係していると思われる。
島国言語の長所はその万能性にある。要約文にもあるように、島国言語の冗語性は通人の存在により形作られたといっても過言ではない。なので、人によって使い分けられている。子供の時はこれを理解できずに友達だけでなく、大人にも馴れ馴れしい態度で話すが、これは非常に幼稚な間違いである。まだ小学校低学年児が話すのならまだしも、これを中2などが喋ったら、気違いと思ってしまうのも無理はない。だが、喜ばしいことに、一般人は年を取るごとにどんどん成熟し、「このままだったら、皆より幼い印象がついてしまう」と思い、態度を訂正していく。この何気ないトライ&エラーが一番の長所だと思う。これは一見当たり前のように見えるが、ポテンシャルがあることは皆さんの想像以上に素晴らしいのだ。私の友人で恐ろしくポジティブな方がいますが、毎回私がテストで好ましくない点数をたたき出すと、「進歩できる部分が見えたから良いじゃないか」と励ましてくれる。この言葉を聞くと毎回「なんて良い友だ」とつくづく思う私だが、この考え方はこの島国言語の空き容量にも応用できるものだと思う。うっかり目上の方に冗語性の多い言葉でしゃべり、へこんでしまったときでも、「次はやらない」と決心したらいいだけのものである。
逆に、大陸言語の長所は根性を鍛えられることだと思う。「対立関係が明瞭」と要約分でも紹介された通り、冗語性のなさにより、真っ向から話さなけらばならない。日米英語学院の調査によると約日本人の過半数から7割が「英語に敬語がある」と誤解しているそうだ。それは冗語性の操作が難しく、日本語の敬語で見られる典型的な文末での変化がないからだ。だが、その迷信は嘘だとわかるだろう。それというのも、根本的な変化はないが、言葉選びによってニュアンスが変わるのは確かだ。しかしながら、この「誤解しているとされる大多数以上」の想像通り、英語には「我が我が」という部分も色濃く残っている。その時、母国語が島国言語の方と母国語が大陸言語が衝突するとどうしても前者がショックを受けてしまう。このシナリオからどれだけこの部類の人々が冗語性に慣れ、頼っているのかお分かりになるだろうか。けれども面白いことに、この「ノー冗語性文化」にもそのうち親しみ、「もう平気やわ」と思ったら、気付かぬうちに根性が来ているからである。この第二段落は島国言語習得者の目線から書かれているが、これは大陸言語習得者でも同様で、冗語性を習得できる。まさに両者の邂逅は両方にウィンウィンの関係をもたらしてくれるのである。
確かに島国言語と大陸言語には独特で比べようのない魅力がある。だが、ここで私が提示したいシンテーゼは:コミュニケーション能力がなくては協力はほぼ不可能という点だ。最近はそれほど見なくなっている様な気もするが、一昔は頻繁に「○○ドコデスカ」と観光客の方が現地の人々に聞いていたのを皆様は覚えているだろうか。近年ではグーグル社の自動翻訳や日本の文化が海外に発信されていることにより、知識を得た観光客の増加により見なくなった光景だ。もし自分がこの立場だったとしよう。あなたは今ベトナムの郊外へ観光に行きます。しかし、道がグネグネしており、方向音痴なあなたは迷子になる。そこではWi-Fiは圏外となり、どうしようもできない。むろん、あなたは現地の言葉は話せない。こうなってしまったらもう最後、ジェスチャーを使うしかありません。もちろん、その対話方法だと会話にも限界がある。このような時、少しは現地の言語を喋れたら、その少しで最大限を出すことが可能だ。そして、そのお気持ち程度でも、新たな学びがあるかもしれない。再度主張するが、そもそも言語が少しでも喋れないと、「ニュアンスがこうだ」、「根性がどうだ」などという、高次元なものは夢のまた夢だ。なので私含め、全人類が外国語を学び、ある種の伸びしろを快感と感じながら、人生を成熟して欲しいと思う。