無駄のない生活

   中2 みお(aemio)  2026年5月4日

 人間は生きていくうえでわずかなもので足りる。我々が生活の必需品のごとく思いなしている様々な文明の利器などなくても人間は生きていけるのである。むしろ、そんなものなしに身を自然の中に置いたほうが、どれほど今自分が生きてあることをしみじみと感じるかもしれない。人は生きるために何を必要とし、何を必要としないか。そういう根源的な疑問の前に自分を立たせてみるとき、自分たちがいかに文明の提供する便利や快適の誘惑によって余計なものを多く持たされているか、そしてそれらによって生そのものを見えなくしているかを知らされるのである。

 無駄がなく、自然と調和している生活にはよさがある。なぜなら、大都会で生活していてもわからない、「楽しさ」を味わうことができるからだ。私の祖父母は鳥取県に住んでいる。祖父母の家があるあたりは、田んぼや畑が広がっていて、高い建物は全くない。だから、きれいな青い空、夜空が広がっている。そんな祖父母の家に行くのが私は好きだ。家族で帰省したとき、祖母は私たちを畑につれていってくれて、イチゴや野菜の収穫をした。ずっと腰を低く保っていたり、引っこ抜いたりするのは大変だったけれど、いつもの生活では感じられない「大変さ」がありとても楽しかった。だから、旅行から帰ってきてから、野菜や植物をベランダで育てるようになった。例えば、トマトやフウセンカズラだ。自然はコントロールできないけれど、それがまた面白くて、人間の感じる、本来の「気持ちよさ」なのではないかと思った。

 反対に、便利で進歩する生活にも良さがある。この生活をすることで、自分のしたいことができると考えたからだ。ドラえもんの映画や漫画には、常に未来の道具や新しい技術が登場する。それらがあるからこそ、のび太やドラえもんなどの登場人物は自然を探検して、いろいろなことを学び、そして楽しむことができる。つまり、技術が進歩することで、自然についてわかり、また関わり合えるようになるのだ。私は、どんどん進歩する今でいう人間らしさと、自然とともに生きてきたもともとの人間の姿は、まったく違っていて、遠いもの同士に見えるが、実はとても密接に関係していると思った。

 確かに、無駄がなく自然と調和している生活も、便利で絶え間なく進歩する生活も、どちらにも良さがある。しかし、一番は、自分、そして一人ひとりの人間を大切にすることだ。技術に頼りすぎてしまっては自分たちの力が鈍っていって、自力で行動することができなくなる。反対に、自然のものだけを使用し、自分ですべてを背負うのも負担がかかってしまう。また、ソローの名言に、「人間は自分の道具の道具になってしまった」というものがある。これは、本来は生活を助けるための道具や仕組みに、人間のほうが支配されてしまう、ということを警告した言葉だ。この言葉の通り、どうやって自然と調和しながら、また技術をうまく用いていくかを考える必要がある。自然を日常にすこし取り入れてみたり、新たな製品を開発するために自分の頭でいろんなことを考えてみたりと、小さいけれどできることはたくさんある。その小さな積み重ねをしていくことで、人生はよりよくなるのではないかと考える。だから私はこれから、自分と向き合って、臨機応変に対応していこうと思う。