父が父でなくなっている (清書)

   中2 あさくに(asakuni)  2026年5月4日

 要約:父親が父親でなくなっている理由は、「立派な父親」の人口が減っていて、結果として、父親の役目も全うできなくなっている点だ。家族を統合し、理想を掲げ、子供に伝統を継承する。このような教育の上、子供はまともに育つのであり、「友達のような父親」の元で自由奔放に育っていたら、「わがまま犬」になってしまうという。自由意志を持ち、勝手に要求をするのは犬そっくりだ。上下関係や権威を持って、初めて価値観や文化を強引に押し付け、躾けることができる。もはや、「共感性のある父親」は父親に必要な能力を失った、実質父親ではない人のことだ。

まず、権威をもった父親は回りまわって、子供を正しく教育できる。要約文でも述べられた通り、「家族を統合し、子供の成長に直結することを伝授する者」が父親である。もちろん、「理想を掲げる」という言葉の中には「プレッシャーをかける」というのも無論入っているが、これは皆さんが考えているほど悪いものではないかもしれない。誰しもプレッシャー下に置かれたら、ビクビクし、なかなか第一歩を踏み出せないだろう。しかし、「もうあんな経験は二度としたくない」と思い、自分の現状から逃げるのは決して良い判断とは言えない。この状況を裏に返せば、「自分は心が弱く、人の期待を背負うほど強くない」と断言し、そのままにしていることになる。このような場合、キツネに摘まれたかのように、何もなかったと思いながら引き続き、自分に挑戦してみてください。そうしたら、最初は実感がわかなくても、必ずその経験は自分の肉となり、血となることでしょう。このようなシチュエーションは7年前の私に降りかかったことがある。当時1年生だった私は、周りの子に学力面でついていけず、どんどんひ弱になり、学校では完璧に気配を消すことだけに専念していた。これを父親に打ち明けてみたところ、「よしっ。じゃぁ明日からその苦手な部分を強化しよう」と答えてくれた。その時私はその熱量に押され、弱い「うん」で返してしまったが、今振り返ってみれば、この判断が今の私を形づけるものだったと思う。翌日から、父は率先して、私の弱点を強化してくれただけでなく、宿題のやり方も努力の本質も全く理解していなかった私の精神を鍛えてくれたのだ。その情熱と熱意に押しつぶされてしまったが、ある時からコロッと意識が変わり、逆にその作業が楽しくなっていた気もする。皮肉だが、あの判断時に何も熟考していなかったからこそ、耐え抜けたのだと思う。その過酷な時期を抜けた後はもう周りに劣らない能力を身に着け、もう自分に自信もついていた。父は決して、「ザ・昭和」では無いが、あの期間を設けてくれたことに今でも感謝している。この現象をふと思い出した時、「まるで、鉛筆の芯を圧縮し、ダイヤモンドを作るみたいだな」と思った。これは理論上の話だが、鉛筆の芯を常人が耐えられないほどの圧力や熱で圧縮すると、ダイヤモンドができるそうだ。これは人でも同じだと思う。素朴でまだ未熟な子供たちが、一見過酷そうな環境下である一定の期間を耐え抜くと、キラキラと輝く唯一無二のダイヤモンドになるのだ。

しかし、父親というのは必ずしも権力を振り回し、家族間のすべてのことの中心でなくてもいいのだ。これは私の解釈だが、自分の子供を「わがまま犬」に変貌さしている原因が父親が「我が子が自分の友」かのように接しているのが原因であるのならば、それは自己管理の出来ていない父親のせいである。本当に自分の子供の将来を考え、社会でもみっともなくならないために日々を子供と過ごしているのならば、純度100%のわがまま犬には決してならなかったはずだ。「人は考えるために生き、その考えたことが自分の足跡となる。」これは他者からの引用でもなく、私の考えだ。なので、必ずしも「〇〇社の会長をしていて、家族内での父親の権力も不動のものになっている立派なお父様」にならなくても、重要なのはその父親の考えることであり、社会的立場や権力はこのような状況下だと何の意味もないのである。よって、父親というのは絶対に立派じゃいけないというわけではなく、それよりも知識やどれだけ熟考しているのかという所に焦点を当て、子供を育成すべきである。

確かに、父親が子供にすごい期待することや子供のことをよく考えてくれるのには長所があるが、どのような父親でも我が子の人生の幸福と成功を願っていると思う。「わがまま犬」を誕生させてしまった裏には、父親が彼なりに考え、「これは絶対いいだろう」と信じて実行したことが、それがただただうまくいかなかっただけだと思います。例外はありますが、基本的に親というものは我が子を愛し、愛の中で育てるものだと承知しています。なので、「わがまま犬」を育成してしまった父親はただただ愛がへんな方向に向いてしまったと解釈していいだろう。「じゃぁどこに愛を向けたらいいの」と聞かれたら、絶対的な明確な答えはありませんが、私でも同意することは「多角的な思考の育成」です。原爆問題などが代表例だが、この世界は幼稚なアニメなどでも見られる、「100%悪、100%善」という概念は存在せず、一つのことにたくさんの解釈の仕方があります。この一つの事柄にたった一つの答えを持っていても、もう一方の意見が理解できなくては、お互いの関係に亀裂が入ってしまう可能性がある。ドイツの哲学者、フリードリヒ・ニーチェが「現実というものは存在しない、存在するのは解釈だけである」というように、正しさや正義は事実上なく、人類が作り上げたおとぎ話の中のものなのだ。これをすべて理解した上で、「自分はこの沢山の解釈の中のこの考え方を支持する」と言えるほどの人になってほしいのが私だけでなく、ほとんどの父親の願いの本質なのではないか。