世界に住んでいるのだから
高2 あおそふ(aosohu)
2026年6月1日
能を見るとわかるが、能役者の足の動きは独特である。日常現実の生活では、人間が絶対しない動きをする。その動きを身に着けるには、体全体の構えができるようになると自然にできるらしい。足だけの稽古ではだめなのだ。美しく、人の心を奪う異様な力がある足の動きというのは、型をくりかえしているうちに力が生まれる。力が型を生むのではなくて、型が力を生むのだ。これが日本人の少なくとも能役者の考え出した身体に対する思想である。この考え方は、外見や身体に対する過度な価値づけがされてしまうというのが問題である。
その第一の原因は、理想的な「型」に収まることを強要される場面が日本社会において多いことだ。
その傾向は学校教育の現場にも見られ、生徒の服装や髪型、生活態度などに細かな規定を設ける校則として表れている。私が通っていた中学校は、服装、髪型の自由が与えられており、標準服(制服)の着こなしもあまり先生のほうから注意を受けることなく他の中学校と比べて校則が緩かった。そんな中学生活とことなり、現在通っている高校では、服装の自由は与えられていない。髪の毛を染めることや、ピアスを開けることなどはもってのほかだ。こういった校則を設ける目的は、集団の統一性を生み出すためと、地域の方々から「さすが〇〇高校」と思ってもらうためというのが大きいと思っている。私たち日本人は、若いときから校則など型に収まることを強要されるためそれが日本人のなかでは当たり前となっている。当たり前になっているからこそ型をやぶろうとする人が少ないのだと思う。
第二の原因は、人間の内面よりも目に見える特徴で人を無意識のうちに判断してしまうことだ。
沢山のピアスをつけ、髪の毛を揮発な色に染め、体に入れ墨を彫って、オラオラと歩いていたらほとんどの人が、怖い人と判断するだろう。中身がどんなに優しい人でも、このような風体でいると怖い人と勘違いされるだろう。そして、周囲の人は話しかけるのをためらうだろう。一方で、ピアスを沢山はつけず、髪の毛もそこまで派手な色には染めず、体には入れ墨を彫らず、ホンワカしている人は、周りから優しい人だと思われる。この対照的な二人の例は、第一印象においての話になる。仲を深めるうちに、怖い人という印象が払拭することができるかもしれない。しかし、外見で怖い人だと判断した場合、よっぽどのことがない限り仲を深めることはできないだろう。人は見た目ではなく中身だとよく聞くが、結局のところ無意識に人を見た目で判断しているのだ。だから、こうありたいという自分の理想像になろうと無意識に思うのだ。
確かに、型に収まるということは集団行動においては大切である。私はこうしたい、僕はこうしたいと、みんなが思いその通りにやっていたら社会なんてまわりはしないだろう。しかし、今の日本は型に収ろうとしすぎである。ある程度、型からはみ出さないと一人一人の個性や独自性が薄れてしまう。人間がすむせかいというのは、水槽ではなく世界なのだから。