言葉の難しさ
小6 ゆい(akakiyu)
2026年5月4日
言葉の難しさ
みんな、日常の文法などは知っているという前提で、日本語の文学とか詩が論じられる。つまり基本的知識のあるもの同士の話なのだ。だが、外国人は、言葉の決まりも発音のしかたも知らないで日本語を習うのだから、外の視点しか持ってないということ。だから、日本は、これからどうやって日本語を刈り込んで行ったら国際普及の日本語になるのかということを考えなければならない。
私は、話す相手によって自分の呼び方を変えている。仲の良い友達の前では「うち」と言うけれど、あまり親しくない人や先生の前では「私」や「自分」と言う。このように、相手に合わせて言葉を使い分けるルールは、正直とても厄介だと感じる。相手によって自分を分けているようで、どれが本当の自分か分からなくなるからだ。だから私は、英語の「I」のように、一人称を一つに統一できたらいいのにと思っていた。そのほうが、ありのままの自分をそのまま表現できると思うからだ。そもそも、日本語は一人称以外もややこしい。私はこの前、最近の様子を伝える「近況報告」を、間違えて「胸筋報告」と言ってしまった。これでは自分の筋肉の成長をアピールしているようになってしまう。ただでさえ言葉のチョイスが難しくてハラハラするのに、一人称まで使い分けなければならないのだから、日本語は本当に難しい。しかし、不便なはずの日本語にも、良いところがあるのではないかと考え直した。例えば、友達に「うちはね」と話しかけるとき、言葉そのものに「あなたを信頼しているよ」という温かい気持ちがこもる。逆に、あまり知らない人に「私は」と言うことで、相手を傷つけないような距離を保つこともできる。言葉一つで、相手への思いやりや心の距離を表せるのは、日本語のいいところだ。一つに統一された英語はシンプルでかっこいい。でも、相手との関係を大切にしながら、言葉の響きを変えられる日本語もやっぱり魅力的だ。厄介だと思うこともあるけれど、この複雑で温かい日本語を、私はこれからも大切に使っていきたい。
日本語の紛らわしさに頭を悩ませているのは私だけではない。アメリカ人の私の父は、もう何十年も日本で暮らしているのにずっと「わざわざ」という言葉を「わざと」と言い間違えていた。父が「わざと来てくれてありがとう」と言うたびに、私は日本語には似ているけれど意味が全く違う、紛らわしい言葉がたくさんあるのだなと感じていた。最近になってやっと父の間違いがなおってきたのを見て、私は日本語の難しさを改めて実感した。
言葉とは人間にとって、互いに心を通わせ、理解し合えるためのすべである。英語のようにシンプルでも、日本語のように複雑でも、だれかとつながりたいと願う気持ちに変わりはない。大切なのは、言葉の形がどうであるかではなく、そこにどれだけ相手を思いやる心がこもっているかだ。私はこれからも言葉を使い、人と深くつながるために、大切に日本語というもの、言葉というものを紡いでいきたい。