長期的視点で見る

   高2 ヨーヨ(waoho)  2026年6月1日

 能役者の身体は、人の自然な体を拒否している。型を繰り返すうちに、美を表現する力が生まれるという日本人の思想に対して、西洋近代の精神と肉体の二元論は全く異なる。日本人は、現実の肉体を超えてあらわれたもう一つの身体に、精神性があると考えている。

 その原因として第一に、日本も近代になって西洋化し、それと共に精神的な、論理重視の世の中になってきたからだ。すなわち、現代社会では物事を細分化し、記号的に分類して処理しようとする傾向が極めて強い。本来、世界の営みはすべて複雑に絡み合っているはずだが、それを明確なカテゴリーに分けることで、私たちは物事を管理しやすくし、安定した処理速度を手に入れた。しかしながら、このように物事をパターン化する姿勢は、枠組みに当てはまらない曖昧な要素や、本来あるべき全体のつながりを見落とす危険性を孕む。例えば、教育現場における「文系」と「理系」というスパッとした細分化がその最たるものであろう。高校二年生での文理選択は、専門知識を効率よく学ぶ上では有効だ。しかし、知性を二つに切り離すシステムは、複雑な現実を前にしたとき歪みを生む。僕も、理工学に興味があるのだが、調べてみると単に数理データを計算するだけでは、災害に強い都市開発はできないなどという事実に気づいた。そこには、その土地特有の気候や地形といった文系的な「地理」の知識を融合させなければ、血の通った解決には至らないのだ。確かに、細分化された枠組みに頼れば局所的な正解はすぐに出るかもしれない。だが、長期的な目線で見つめたとき、この分類の論理は、かえって大切な全体像を置き去りにしてしまう。つまり、効率的な分類に依存しすぎる社会は、物事の背景にある「つながり」を捉える温かさを失ってしまいがちなのだ。

 第二の原因として、効率主義の世界の中で、すぐに目に見える結果を求められるからだ。つまるところ、現代社会は徹底した結果至上主義に支配されている。短期間で成果が出るものばかりにこだわり、試行錯誤の「過程」を尊ぶ姿勢は後回しにされがちだ。しかし、このような風潮は、人間のモチベーションに対して深刻な悪影響をもたらす。なぜなら、失敗が許されない環境では、誰も未知の領域へ挑戦しなくなるからだ。これに関して、先日テレビで見た「株式会社マーナ」の、ベルトがなく一気に巻き込んでたためる傘の開発は良い。この大ヒット商品は、アイデアから製品化まで実に数十年もの歳月を費やしたという。もしも経営陣が短期的な数字だけを求める効率主義に陥っていたならば、この気の遠くなるような過程は途中で切り捨てられていたに違いない。すなわち、会社が目先の結果を急かさず、開発者の情熱を温かく見守り続けたからこそ、革新的な価値が誕生したのである。結局、過程を軽視して結果だけを貪る社会では、人間の精神的な創造性など育つはずもないのだ。

 確かに、効率よく論理的に考えることも生存戦略としては大切だ。しかし、「人間万事塞翁が馬」というように、社会の価値は一時の表面的な結果だけで測れるものではない。かんじんなことは、目に見える成果の裏側にある、長期的な目線で寄り添う「もう一つの身体」としての精神性なのだ。