ノンフィクションの書き手は

   中2 あさくに(asakuni)  2026年6月1日

 要約:ノンフィクションの書き手はフィクションの書き手よりも苦労するものである。後者はただただ自分の思うままに書いていくと逆に真実に違づいてゆくものだが、前者はその真反対で、探求すればするほど、どんどん核心が曖昧になり、面白味がなくなってしまうのだ。「じゃぁどうすればいいの」と思うのも当然である。ノンフィクションがどうしても行き詰ってしまうのは、ルールが敷いてあるからだ。屋根のある家を生身の人間が突き抜けられないように、ルールがあるものにはどうしてもなんらかの制限がかかってしまうのだ。そしたらまた「どうしたらいいの」と思うかもしれないが、そのような時には読み手が「ノンフィクションは絶対的だ」という妄想から逸脱し、「ただの仮説だ」と自覚しながら読むのが最適だ。

事実をありのままに伝えることは過去に責任を取る機会が設けられるから良いのだ。去年は戦後80年、昭和100年であったことから、戦争関連のものがたくさん出てきて、多くの人々に80年前の悲惨な出来事を再認識する機会が設けられた。しかし、今年になってからはというと、「トレンドはもう終わりですよ」と言わんばかりに、人々やメディア含め忘れてしまっている。だが、「戦後81年、昭和101年」の今こそ、周りが一時的な反応を示し終わった後、自分の意見を整理するのに最適だと思う。これは私が去年とある戦争関連のドキュメンタリーを見たときに初めて知ったことだが、戦争中に日本軍は戦場の現状を国民に盛りながら報告していたそうだ。たとえそのころは皆が信じていても、今となればすべてが表面に出ており、全てわかるような状況だ。そして、肝心の私たちの「あぁそうだったんだ」と薄い反応を示した後すぐ忘れるのではなく、この事柄だけでなく戦争全体の悲劇を心に深く刻み、真実を後世に伝える義務がある。知ることももちろん大切で、大前提であるが、我々はそれに責任を負わなくてはならないことを無視してはならない。多くの人は戦争時の日本のことを、「二つの都市、広島と長崎に原爆を落とされ、無残な姿になった後降伏した国」として覚えているだけかもしれないが、実は日本ももちろん敵国を攻撃し、人々を殺めたのだ。このことに責任を負い、これからもその悲劇を心に置いておくことにより、人々は前進し、考え続けることができる。

しかしながら、真実により近づく制作方法にも、共感性を増し、より多くの人に知ってもらえるという重要な効果もある。これは心理学的にも証明されている。今はもう心理学の基礎中の基礎のような情報だが、人間という動物はどうしても仲間を欲しがるそうだ。これは私が大変尊敬し憧れる哺乳類動物学者、今泉忠明先生から学んだことなのだが、人々は自分の種族が動物であるということをわかってそうでわかっていないのだ。だからこそ、私のような無意識者は心理学やこのような考え方に浪漫を感じるのかもしれない。裏を返せば、この動物の名残りが残っていることが唯一の救いなのかもしれない。その反発できない自然の摂理により、情報は拡散され、仲間を増やし続けているのかもしれない。最近私が通っている学校でやけにゴシップが流行りだしたのである。気になって「なんで皆はこのような他人事の情報に飢え、欲しがっているのだろう」とグーグルで検索したところ、またもや「無意識な社会的行動」という結果が出てきたのだ。私が行った検索によると、人ははるか昔、まだ毛むくじゃらな猿だったころから、このような社会内の噂話は喜ばれたそうだ。この衝撃の事実を知った時、まさに麻薬のようだと思った。いつの時代も様々な理由から逃れたいという願望を叶えるクスリの様に、人々の昔からの欲望を一時的に満たしてくれるゴシップ。このクスリにたくさんの種類を加えるため、私たちは制作方法にもこの心理現象を利用しなければならない。たっぷり発信し、話の通じる人の人数が十分になった時、皆で一致団結し、また一人でも多くの人に伝えていく必要がある。これを見事に実践し、2024年にノーベル平和賞を受賞した日本被団協はこの現象を見事に利用した例だと思う。たくさんの人に情報発信をし、皆も参加したことにより、この受賞が可能になったのだ。

確かに事実を忠実に伝えることには過去に責任をとれるというアドバンテージや真実により近づく制作方法にも共感性を増し、より多くの人々に発信できる事ができる長所があるが、一番重要なのは未来と過去の境界線でちっぽけに存在している我々が今どうやって未知の未来へ良い影響を及ぼせるかにあると思う。これは私のシンテーゼとして頻繁に出てくることなのだが、現代人は責任をとることを放棄しているように思う。特に令和の時代だからこその恐怖症かもしれないが、この同調主義国の中で他者よりも頭一個分飛び出ていることは拳が飛んでくる確率が高いのだ。だが、そこを我慢し、周りを説得したその先に新たな世界が待っているのではないだろうか。同調主義国なら皆で向上した先にこそ個々が責任をとり、未来開発をする時が来るかもしれない。私はそのような未来を期待し、作っていきたいと思っている。