先生という存在から学ぶ

   小5 みきひさ(mikimiki)  2026年6月1日

 「キーンコーン、カーンコーン。」< <構成> >

学校にはいろいろな性格の先生がいる。< <題材> >真面目な先生、愉快な先生、運動が好きな先生などがいる。休み時間に廊下を走る生徒がいた時の対応も様々だ。例えば、真面目な先生は、

「廊下では歩きなさい。」

と、毅然とした態度で厳しく注意する。一方、愉快な先生は、

「廊下は歩こうね~。」

と、ノリノリな口調で注意する。また、授業の仕方も異なる。真面目な先生が算数や国語を教えると、内容は良く分かるが、身に付かない。なぜなら、授業が楽しくないし、しかも、口調が速いことが多いからだ。逆に、愉快な先生の授業は、教科書の内容を覚えやすいが、一見、その教科の内容ではないように感じてしまうこともある。まるでテンポのよいお笑い芸人のようだ。< <表現> >

 僕は、真面目な先生よりも愉快な先生が良いと思う。その理由は二つある。一つ目の理由は、授業を楽しく待てるからだ。例えば、二年生の時の国語担当のS先生の授業前は、クラスがワイワイ賑わっていた。まるで、お祭り前のような様子で、授業を皆、心待ちにしていた。二つ目の理由は、長い間、先生の話を覚えていられるからだ。今でもまだ、二年生の国語の授業で体育館と武道場を貸し切って、教科書に載っていた文章を自分達でも検証してみたことを鮮明に覚えている。しかし、愉快な先生だと授業が進まないので、真面目な時と愉快な時がある先生が一番良いのかもしれない。

 「先生」とは何か辞書で調べてみると、学識や経験があり、学問を教える指導的な立場にある人に対する敬称であることが分かった。また、元々は、「先に生まれた者」、つまり、「年長者」を意味することも知った。僕は、先に生まれたから先生という考え方に興味を抱いた。なぜかというと、なかなかこのような考えは思いつかないからだ。僕は、どうしてそのような考え方ができたのかと考えてみた。ただ教えるだけでは先生になれないので、小学生など経験がない場合は到底先生にはなれないからだろうと思った。僕がもし、「先に生まれた者」を名付けるとしたら、同じように「先生」と名付けただろう。なぜなら、「先者」や「生者」だと、「先人」や「生まれた人」と間違えやすいからだ。

 人間にとって先生とは様々な顔を持つ存在である。< <主題> >例えば、表向きの顔が愉快な先生がいる。しかし、実は仕事も頑張るという全然違う裏の顔がある。また、僕たち生徒の前では、あまり話さず、遠くから見ている先生がいる。僕のクラス担任だ。しかし、実は、生徒を信頼していて、皆が楽しく過ごせるようにいろいろな準備をしてくれていることを知っている。元々は「先に生まれた人」として定義された先生だが、担任はそれ以上にすごい存在であり、故事成語の「桃李もの言わざれども、下自ら蹊を成す」を体現していると思う。僕は、そのような担任を「青は藍より出でて藍より青し」という諺のように超えて、皆を見守れる人になりたい。

今、魅力を纏った僕は先生に迫る勢いだ。