自立しない若者

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 施肥が十分な茶の木には花が咲かないが、放置され栄養不足になると子孫を残すため一斉に花を咲かせる。また、茶園では変種を防ぎ品種を維持するため、種子ではなく「挿し木」や、枝を折って土に挿し発根させる「取り木」で増やすのが一般的だ。現代において、恵まれた環境で苦労せずに自立しない若者が増えているのが問題だ。

 その原因として第一に、物や情報が最初から最適化され、失敗と格闘する「過程」が周囲から奪われているからだ。すなわち、現代のデジタル社会では、最初から「正解」が用意されすぎている。例えば、プログラミング教室に通う僕自身の経験がその最たるものであろう。最近では、コードを生成AIと紐づけ、自動でプログラムを適用できる便利なシステムがある。僕もたまに活用するのだが、コードが複雑になればなるほど、不具合が生じた際の修正箇所が多くなる。しかも、AIはなぜか高度なコードを書くため、自分に本当の実力がないとバグを修正できないという致命的な事実に気が付いたのだ。確かに、AIという恵まれた環境に依存すれば効率は良い。だが、自分で一行ずつコードを書いてエラーを出し、数時間かけて泥臭く直すという「苦労の過程」をスキップし続けていては、本当の解決力は身につかない。つまり、便利なものを補助として使わず、苦労を避ける盾にしている社会は、若者が自力でトラブルを乗り越えて「自立」するための心の筋力を奪ってしまいがちなのだ。

 第二の原因として、一度の失敗も許さない「減点方式」の社会が、人間の防衛本能と最悪の形でマッチしてしまっているからだ。本来、人類の長い進化の歴史を振り返れば、原始の時代において、未知の領域への挑戦や失敗は即座に「生物的な死」を意味していた。そのため、私たちの脳には「危険を冒さず、安全な縄張りにしがみつくこと」を正解とする生存戦略が刷り込まれている。ところが現代社会は、餓死するリスクがほぼゼロであるにもかかわらず、一度の失敗がSNSでの炎上や社会的な孤立に直結しかねない冷徹なシステムになっている。このような現状において、若者が「恵まれた親元や安全な環境」に依存し続けることは、生物として極めて合理的な防衛反応であると言わざるを得ない。結局、過程を認めず結果だけで人間を裁く社会では、若者に自立というリスクを冒せという方が無理な話なのだ。

 確かに、厳しい現実から目を背け、ぬるま湯のような環境に甘んじ続ける姿勢は克服されるべき課題だ。しかし、「雨降って地固まる」というように、人生の真の自立とは、多くの失敗や苦労という「雨」を経験するプロセスを経て、初めて強固なものへと仕上がるのだ。