知識と思考力
中3 あかるら(akarura)
2026年6月3日
現代ではどの分野においても専門化が進んでいる。しかしそれは同時に「専門バカ」となる危険性をもはらんでいると言える。自分の専門内外に関わらず、幅広い事柄に対し理解を示す人々もいる。この差は常識や一般教養の有無である。これらの知識は言論の大きな基盤である。教養というのはその道の専門家になるための技術として学ぶのではなく一人の素人として学ぶべきだ。だからこそ、私は専門的な知識だけでなく、幅広い教養を身につけた人間になりたい。
その方法として第一に、読書をすることが挙げられる。図書館を訪れれば棚を見て回るだけでも多くの本との出会いがあるように、現代では多様な読者層に向けて多くのテーマの本が出版されている。これはつまり、本が手軽に「教養」を身に付けるツールであるということだ。私は幼い頃から読書に親しんできた。幼小期に楽しんで読んでいた絵本が次第に長編の物語や小説へ、そして新書にまで広がっていった。近年読むことの増えた新書だが、今振り返れば、国語や地理、哲学などの文系を好んでいたと言える。しかし、中学生になり数学の本を読んだことをきっかけに理系にも興味を抱くようになった。今では学校でも文系の科目の学習はもちろん、数学の授業でも積極的に考え、発言できるようになっている。読書は興味へ、興味が教養へ繋がる。本こそ知識を得、考えることを促すとともに私達の可能性を最大限に発揮させてくれるパートナーである。
第二の方法として、教科と教養が異なることを理解することだ。現代の学校教育は「アクティブ・ラーニング」のような理念によって変革が起こっているものの、未だに知識を詰め込むことが基本である。一方、教養には思考力を欠かせない。私の考える教養とは、知識をもとに自ら思考を巡らせることだからだ。長年語り継がれる事件「地下鉄サリン事件」とも関連する。これはオウム真理教が、多くの人が利用する地下鉄内に猛毒を撒いたことでも有名だが、それと同時に「詰め込み型教育の敗北」というテーマでも未だに私達を考えさせる事件である。当時サリンを製造した人々の多くは難関大学を卒業したいわゆるエリートであったにも関わらず、無慈悲な行動に自ら突き進んでしまったことは衝撃を与える事実である。彼らには一歩立ち止まって考える倫理観や思考力に欠けていたのだ。これではいくら試験で良い点数を獲得したとしても価値がない。教育の本来の目的は自分の人生を豊かにするだけでなく、社会に尽くすためでもある。だからこそ、過去の事件を繰り返してしまわないための鍵は「教養」にあると言える。
確かに、忍耐力や集中力など、一つのことを追求することで得られる力がある。なぜなら、一つのことを細部まで極めることはまず体力を要するからだ。しかし「知るだけでは不十分である、活用しなければならない。意志があるだけでは不十分である、実行しなければならない。」という言葉がある。知り、活用すること、また意志を持ち実行することの架け橋になるのは幅広い知識と思考力である。この二つを兼ね備えた人間は社会に新たな光を投じることのできる力がある。だからこそ、専門的な知識だけでなく、幅広い教養を身につけた人間に、私はなりたい。