清書 偏見

   中1 あおやゆ(aoyayu)  2026年6月4日

 見たり触れたりして得る直感は大切だ。ものを見たり接したりするときには自由で柔軟な感覚を失っては感動できない。しかし、直感に安易によりかかりすぎると独断や偏見に陥る。そのため、自分の感性を信じつつ、一般的な知識と他人の意見を耳に傾ける余裕といったバランスの上に感受性が成り立たなければならない。知識という定義があることで感情や思い考えが阻まれてしまうこともある。私は知識に縛られないことは大切だと思う。

 第一の理由は自分の目で見た方が成長するからだ。私は美術館に行った時に、つい絵画ではなく作者の名前や説明書きから見てしまうことがある。例えば、この絵画はレオナルドダヴィンチが描いたという説明を見るとその絵画がどのようなものであるかを見る前に「すごい」と判定してしまう。これではその絵画を見て素晴らしいと考えるまでのプロセスによって育まれる感受性が育たない。美術館の説明書きはある人の視点から見たありのままの感想であったり事実であったりと正解でも間違いでもない。ただ自分の意見や思ったことを自分の中で形にする前に事実を前にして良し悪しを判断するのは人の感想で鑑賞しているのと同じだ。美術館の作品を見ることで人の考えや思いを言葉ではなく絵画という「いろいろな方向から見ることでさまざまな理解がある」方法で伝えるのは人同士で感性を刺激し合うためだろう。

 第二の理由に知識があると物事の真の姿を見れなくなるからだ。皆さんは加害者家族というものを知っているだろうか。刑事事件や重大な事故などを起こしたとされる人物(加害者・被疑者・被告人)の配偶者、親、子供、兄弟姉妹などの親族を指す。彼らは直接罪を犯したわけではないにもかかわらず、社会的な偏見や孤立、過度なバッシングなど深刻な二次被害に直面することが多い。「あの人の家族は殺人を犯した」という事実に基づいて「あの人も殺人をするかもしれない」と思うのは自然なことではある。しかし、その人が殺人をするといった確証はないのに決めつけるのは良くないことである。「羊の告解」という本では突然、父親が殺人を犯したと告げられた主人公の亮平は学校を変え苗字を変えて過ごす。なんの変哲もなかったはずの家族が殺人を止めることができなかった、殺人を出した家族として新聞にも書かれていた。世界には差別が多い。これは偏見による物だと思う。白人だから、黒人だから、殺人を犯した人の家族だから、病気だからという理由で迫害される人は今もいる。偏見は人間の考えの中で影響が大きいのだなと思った。

 確かに知識があった方が物事を効率よく見れるかもしれない。知識があったからできることも多い。しかし「行動するためには多くのことに無知でなければならない」という名言のように知識にとらわれず偏見を捨てて自分の味方で物事をありのままに見ることは大切だ。インターネットなので間違った情報に躍らせてしまうことが多い現代社会だが、書いてあったことを鵜呑みにせず自分の頭で考えてから行動に移したい。