型に出会って

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 能を見るとわかるが、能役者の足の動きは独特である。この構造に対置している関係は、型とその型の美しさだ。形を繰り返しているうちに、あの力が生まれる。力が型を生むのではなく、型が力を生む。型へ体をはめ込むことによって型を越える力に到達する。これが日本人の身体に対する思想だ。精神と肉体は別次元であるとする西欧近代の二元論とは全く対照的なものだ。身体自体がすでに精神的なものであり、だから精神とのコミュニケーションというようなことが可能なのだ。

 身体や形式を重要視しなくなっている今の社会は問題だ。

 第一に考えられる原因は、論理的にものごとを考えることが大切とされる社会になり、形から入ることで得られる良さを忘れつつあるからだ。僕が今通っている高校は、校則がない。学校の方針の中に、常識を見直し、自分たちで一から考えるというものがあるためだ。だから、学校での決まりごとは、僕の高校の三原則である、命に関わること、法律に触れること、人の学びを妨げることはしないという前提に基づいて生徒が決めていく。だから、今まで自分が通っていた小中学校では当たり前だったことが、ここでは違う。その一つで一時期問題になったことがある。席の配置についてだ。一年生の入学初期はもちろん席も自由で、みんなが適当に机と椅子を動かし、授業を受けていた。しかし、すぐに問題が浮き彫りになった。仲の良い子たちが集まることでそこでずっと話し続ける、ということが周囲で起こり、クラスの授業に対する主体性が低下していったのだ。最初は真面目に受けていた子も、その中にいるとどうしてもつられてしまう。その悪循環で事は起きていた。そこで、クラスで話し合う時間を取り、席は多くの学校のように並べて固定して、くじで決めるようにした。そこから個々の交渉で席を交換できるようにしたのだ。こうすることで仲の良い人たちが極端に固まらないようになり、みんなの授業態度も一挙に良くなっていった。このような経験を見直してみて、自分たちはなぜ従来の席の配置はこのような形でとられているのか、理由を考えないまま席を自由に動かしていた点が浅はかだったと思う。この話し合いによる問題解決を通して、納得して席決めができるようになった。

 第二に考えられる原因は、形式や身体自身に意味を求めるようになっているからだ。今の社会は、そのものに対して意味を見出そうとし、それがないならやらない、という風潮が強くなってきているように感じる。たとえば、僕はアニメのスマホゲームをしているのだが、最近ふと、「これをやって何になるんだろう。何が残るんだろうか。」とゲームをやる意味を考えることが時々ある。たしかにゲームをしている僕が言うのも何だが、ゲーム自体から得られる利益は一時的な幸福だけだ。それも、アンインストールすれば今までのゲームに費やした時間は無駄になってしまう。しかし、ゲームをすることによって、友達のつながりができ、そこからまた輪が広がっていくことも多々あるのだ。中国の戦国時代の儒家思想家で、旬子という人物がいる。筍子は、人間の本性は欲望であるから、礼、教養、修繕が必要だと説いた。礼論という考え方で、礼とはルールではなく、身体的実践を通して人格を形成するものとしたのだ。礼自体にも意味はあるが、礼によってもっと大きな人の心が造られていく。形式から心が生まれていくのだ。

 たしかに、はっきりとした意味や価値をもつものごとを大切に、磨き上げていくことも良い。しかし、ものごとの意味は生まれながらにあるものではなく、関わった人の数だけ、そしてその経験のなかでそれぞれにできていくものだ。形式に出会うことも経験の一つである。だから、身体や形式を重要視しなくなっている今の社会は問題だ。