一色ではない多彩な文化(清書)
高1 蜩(aeriya)
2026年6月4日
もちろん科学技術によって可能となった牧歌的「文明」が、「文化」の精神性を脅かすという危機意識は、いろいろな思想家において表明された。しかし、それは、ヨーロッパ精神の内部での危機意識にとどまっていたのである。それに対して、日本近代がヨーロッパ近代の受容をともなって成立したとき、両者は同心円を形成するわけではなかった。柔らかい普遍性がいろいろな中心を併存せしめ、そのひとつとして科学技術を内につつんだのである。その多中心的な複合構造が、自己同一性を基本とするヨーロッパ近代と日本近代の構造上のちがいだともいえる。外国の技術・文化を取り入れるときは自国の特色に合わせて消化していくべきである。
第一の方法としては、取り入れようとする物の、表面的な部分だけを真似して、自分を着飾って満足しないことだ。誰もが社会科の授業で風刺画というものを目にするだろう。世の中の出来事や状況を面白おかしく、そしてわかりやすく描くものだが、世の中の核心をついているような絵もある。私も中学時代に西洋から見た日本の様子を描いている風刺画を教科書で見た。それは、日本が不平等条約撤廃のためにヨーロッパの文化を必死で真似している様子を嘲るようなものだった。私はこれを見た時の最初の感想は「うわあ。日本ってめっちゃ馬鹿にされてるじゃん」だった。日本がただ、西洋の猿真似をする様子は真似されている側からすれば、ただ滑稽なだけだったのだ。しかし、逆に海外から取り入れたものでも、日本独自に発展させて、日本国内にとどまらず世界的に認められるまでに昇華させた文化もある。それはアニメーションだ。アニメは元々は海外から入って来たものだが、それを日本の中で発展させ、今や日本の代表的な文化の一つになっている。これは、アニメという技術を表面だけ再現させたのではなく、日本の表現や解釈、発想を混ぜ込んだからこそ、ここまで発展させる事ができたのだ。ここから、ただ「素晴らしいもの」の猿真似をして満足しないことだ。
日本の文化の良さを再発見するための、カリキュラムをさらに充実させるべきだ。日本の文化というものは、ただ知識として頭に入れるだけで完結させるだけではその良さというものは微塵も伝わらない。それを改めて感じたのは、中三の修学旅行でのことだ。私が行った際は、清水寺と銀閣寺しか回れなかったが、それでも日本の趣というものは肌で感じる事ができた。今まで教科書でしか見られなかったような文化財をこの目で見る事ができたことは、当時の私にとってかなり大きな出来事だった。特に学年全体で見た能が一番見応えがあった。脳のような形がなく体で表すものは写真や動画などではその迫力というものは伝わらない。ただ写真を見ただけで「つまんなそうだから、見たくないな」と終わらしてしまうのは良くない。また、いかに日本の文化についての知識を詰め込んだとしても、本物を見なければ、日本の文化というものは語れないだろう。「百聞は一見にしかず」という言葉があるように、ただ書籍だけを使うだけでなく、本物を見て感じるような教育をさらに増やすべきである。
確かに外国の進んだ文化を取り入れるのも進歩の一つであり、素晴らしいことだ。また、一方的に「外からのものは悪」と決めつけて排除することも、進歩の道を自ら絶ってしまうことであり良くない。しかし、それに染まり上がってしまい、もともと古くからある「自国の文化」を捨ててしまうのも勿体無いことである。文化とは取り入れるだけで、その一色に染まってしまうものではなく、個別に存在しながら、混ざり合いお互いに深まりながら共生していくものである。ここから、外国の技術・文化を取り入れるときは自国の特色に合わせて昇華していくべきである。