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 日本のような多彩にして変幻きわまりなき持つ国で八百万の神々がうまれ崇拝され続けた来たのは当然の事であろう。山も川も気も一つ一つが神であり人でもあるのである。それをあがめそれを従うことによってのみ生活生命が保証されるからである。日本において科学の発達が遅れた理由はいろいろあるであろうが、一つにはやはり日本人の以上述べきたったような自然観の特異性に関連しているのではないかと思われる。前にも述べたように自然の恵みが乏しい代わりに自然の暴威のゆるやかな国では自然を制御しようとする欲望が起こりやすいということも考えられる。ともかくも日本で科学が発展しなかったのはやはり環境の支配によるものであって、日本の頭脳の低級なためではないということはたしかであろうと思う。ノンフィクションの書き方は在るものを映そうとし、フィクションの書き方は、在らしめるために創ろうとする。とすれば、最も大事なことは、ノンフィクションには何が可能で何が不可能かの境界を見極めることのはずである。事実をありのまま伝えることは大切だ。

 理由の一つとしては、僕自身、誤った情報を親に話、迷惑をかけてしまったことがある。その日、僕はピアノのレッスンだと思っていて、予定表も確認せず、母に「おくってー」と頼んだ。しかし、その後教室についても一向に先生は現れなかった。その時初めて焦って今日はレッスン日かどうか確認した。自分の確認不足で母には誤ったことを伝えてしまい、自分も母も時間を無駄にしてしまった。その時僕は初めて、自分の発言の一つ一つに責任を持たなければならないと思った。だから、事実をありのまま伝えることは大切だと思った。

 しかし、同時に事実に反したことも言わなくてはならない時も必ずあると思う。僕は最近、特に知りたくもなかったのだが、友達の悪口を聞いた。その時は特に気にしていなかったのだが後々、その悪口を言われていた友達から「あいつなんか言ってた?」と聞かれた。その時僕はとっさに「わからない」といった。何とかその場はやり過ごすことが出来たが、今考えるとあの時「本当の事いったほうがよかったかな。」などいろいろ考えが浮かんでくる。しかし、最終的にたどり着いた答えは「わからないでいい」ということだ。確かに真実をありのまま伝える手のあるが、それだとその友達は嫌な気持ちになるだろうし、自分も面倒ごとに巻き込まれるのは嫌だった。だから、自分とその友達を守るという意味でも「わからない」といったのは正解だと思った。

 「真実をありのまま伝えること」と「事実と反したことを伝えること」には両方メリットもある。しかし、同時にデメリットもある。だから、その場の空気感、伝える内容、相手の気持ち、自分の立場に合わせて柔軟に伝え方を変える必要があると考える。