日本人のあいまいさ

   小5 あさたえ(asatae)  2026年7月2日

 日本人はあいまいだ。日本人は義理人情にからまれてどんなに明白な拒絶があろうと、相手に熱心にたのまれたら、それをむげに断るのは、何か気がひけるように思ってしまう。われわれは、それを「義理と人情」のせいにするが、もともと義理と人情とは、正反対な概念なのである。このように正反対のものをいっしょにし、折衷して日本人はそこにどくとくの判断領域を設定するのだ。日本人の絵画の特質に「余白」の美というのがある。それに対してイスラムの芸術は全く逆で、空白へのきょうふとも思えるほどのびっしりと空欄を埋め尽くす。モスクの絢爛にそれがよく現れている。ところで日本人の好む「余白」だが、これは言うまでもなく可能性を意味する。画家は何かをえがこうと思えばいくらでもえがき足すことができるのだ。しかし、かれはえがかない。えがかないことによってかんしょうしゃにその余白の部分を預ける。「余白」とは画家と鑑賞者に共有の空間なのである。そして「余白」をそれぞれが想像によって、どのようにうめるのか当の作者と鑑賞者双方の「せめぎあい」にかかっているといってもよかろう。そこを何とかするかとにより日本の芸術もその価値をきめられるわけなのである。

 この長文を読んで、印象に残った2つは、日本人の曖昧さと「余白」の美だ。日本人のあいまいさについての私の似た経験がある。私はみんなで遊ぶのに中か外かを決めるのに「別にどっちでもいいよ~。」とこたえてしまった。他にもみんなで遊ぶのが大好きな私は、今日は1人で家でテレビを見たい気分であったが、「いいよ!」といって遊んでしまう。だから日本人はあいまいだと言われるのだろう。

 お母さんにも似た話があるか聞いてみると、お母さんはみんなで外食に行くとき、焼き肉かしゃぶしゃぶで聞かれたとき、「どっちでもいいよ。」とこたえたえてしまったそうだ。

 日本人のあいまいさは、まるで雪の宿だ。本当にただどちらでもよいときもあるが、自分の意見も言いつつ相手の意見もしっかり聞いて考える第1歩となっているのではないだろうか。そして、日本の絵画の特質である「余白」はまるでわたあめだ。だが、その「余白」は自分の創造力を高める第1歩なのではないのだろうかと思う。