日本の余白

   小5 あけみな(akemina)  2026年7月2日

 日本人は義理人情にからまれて、どんなに明白な拒絶の理由があろうと、相手に熱心に頼まれたら、それを無下に断るのは何か気がひけるように思ってしまう。だから日本人の「ノー」は決して絶対的な否定ではなく、その一部に「イエス」を含み、「イエス」はその中に「ノー」の要素を合わせて持っている。実際、「そこをなんとか」という表現の中には、日本人のものの考えが実によく表れている。したがって、あとどのくらいの可能性の余地があるのか、その隠された部分を両者は見極めようとし、この言葉が頻出するわけである。

 ぼくはこの話を読んで、だから日本人は人柄がいいと外国の人に思われるんだと思った。なぜなら日本人は相手に合わせた対応ができるからだ。なので、よく考えたら、ぼくたち一人ひとりが良い人柄を持っている。ぼくは住んでいたロンドンの公園で友達にお菓子を配っていたら、知らないロンドンの人たちがお菓子を全て持って行かれてしまった。まるで奈良の鹿の餌やりだ。 一方、日本の公園でお菓子を配ると、ぼくの分だけ残っていたのだ。これが日本人の人柄の良さだ。

 ぼくは俳句に余白があると思う。なぜなら有名な松尾芭蕉の、

「古池や 蛙飛びこむ 水の音」

では、古池にカエルが水に飛び込むぽちゃんというイメージができるからだ。ちなみに違う俳句では、正岡子規の、

「柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺」

では、柿を食べていたら法隆寺の鐘が鳴ったということがわかる。このように、俳句にはすべてを説明しないことで想像に任せるという余白がある。

 ぼくは日本人のあいまいさや余白が好きだ。なのではいくや百人一首を聴くのが好きだ。なぜなら、読んだ後に続く余韻の後からひらめくのは楽しいからだ。これからも日本特有の余白を感じていきたい。