借り物の言葉、自分の心
中1 はる(akiiko)
2026年7月2日
借り物の言葉、自分の心
「よい週末をお過ごしください」という挨拶は、もともと英語圏の表現であり、かつての日本には週休二日制という仕組みがなかったため、週末を意識したこのような挨拶は存在しなかった。しかし、社会の仕組みや人々の生活スタイルが新しく変化したことに伴い、海外の文化が現代の日本の習慣として新しく取り入れられるようになった。時代や社会の移り変わりに合わせて、新しい言葉や文化は常に生まれてくる。大切なのは、新しく流れてくる流行をただそのまま受け入れるのではなく、その背景や意味を自分たちの生活に引き寄せて考えることである。外側の形だけを真似するのではない、その言葉が持つ本来の目的や思いを理解して使うことこそが、本当に新しい文化を取り入れるための第一歩なのである。
自分なりに消化してから何かを取り入れるのは良いことだ。長文にある新しい挨拶も、海外の文化をただ直輸入して他人任せにしたのではない、日本の社会の変化に合わせて、私たちが自分たちの生活に馴染む形へと主体的に関わっていったからこそ定着したのだと思う。もし私たちが、新しく目の前に現れたものに何でも飛びつき、それを誰かの基準のまま受け入れて生きていくだけだとしたら、それは自分の頭で考えて生きていると言えるのだろうか。新しいものを受け入れる前には、それを自分の問題として引き寄せ、じっくりと向き合うプロセスが、今の私たちには絶対に欠かせない。
第一に、他人の意見や流行の空気をそのまま真似して取り入れるだけでは、自分という人間の心の根っこが育たず、本当の意味での自分の意志を持てなくなってしまうからだ。私は現在、スマートフォンを持っていない。だからこそ、周囲の友達の様子がよく見える瞬間がある。スマートフォンの画面の向こう側の流行に影響されているのか、クラスの多くの人が、言葉の主語を「私はこう思う」ではなく、「みんながこう言っているから」に変えてしまっているように感じるのだ。「あの人がこう言っていたから間違いない」と、誰かの言葉を右から左へ横流しにする姿は、あらゆる物事を「自分事」ではなく他人事にしてしまっているようにも映る。自分のフィルターを通さない借り物の言葉や意見は、結局はその人自身の体の一部にはなってくれない。この周囲の光景を通して私は、どんなに手軽で魅力的に見える情報や他人の意見であっても、主語を「みんな」に預けるのではなく、まずは自分自身の問題として捉え直すことが何よりも大切なのだと強く実感した。
第二に、周りにある優れたものや素晴らしい環境を自分事として主体的に取り入れることで、新しく出会った文化や知識の本当の良さを最大限に引き出し、自らの力へと変えることができるからだ。私は中学校で、お互いへのリスペクトと肯定感が満ち溢れている合唱部に所属している。私たちは常に音楽の純粋な高みを目指し、お互いに順位を競う厳しい機会もたくさん経験しながら日々歌声を響かせている。先日、披露する二つの楽曲をめぐって部内オーディションが行われ、私は二曲のうち一曲に合格することができた。その時、私の周りには、素晴らしい歌声や表現力を持った「いいもの」がたくさん転がっていることに改めて気がついた。しかし、ただ上手な人の姿を他人事として遠くから眺めているだけでは、自分の歌は一歩も前へ進まない。周りにある最高の技術や仲間たちの表現を、「自分ならどう表現するか」「どうすればこの良さを取り入れられるか」という自分事として引き寄せ、主体的に自分の歌声へと組み込んでいく作業が必要なのだ。肯定と尊重の拍手が飛び交う温かい部活の空気の中で、私は周囲の美しさを自分自身の力へと変える変化の奥深さを知った。優れたお手本をただの風景にするのではない、自らの課題として向き合い、自分の主語で挑戦したからこそ、新しい景色は本物の価値となって私たちの前に現れたのである。
確かに、流行の言葉やみんなの空気に深く考えずに乗っかる方が、周りと合わせられて楽だし安心だという意見もよく分かる。
しかし、江戸時代の有名なリーダーである二宮尊徳は、「道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である」と言った。これは、目に見える形だけを真似しても、中身の心が伴っていなければ意味がないという教えだ。周りの流行を他人事として右から左へ流すだけなら、それは尊徳の言う「寝言」と同じになってしまうのではないだろうか。
このように考えると、ただ時代の流れに流されるのではなくて、主語を「私」にして自分に必要なものを受け入れていく姿勢がとても大切だ。もし、目の前にある全ての情報をそのまま信じて「みんな」に主語を預けてしまったら、私たちは自分の人生の主人公ではなくて、ただの観客になってしまうと思う。周りの流行や誰かの意見に主語を預けて、ただ受け入れるスピードだけを競い合う社会は、どこか息苦しくて人間の深みを奪っていくような気がしてならない。
だから、私たちは新しい言葉や周りにある素晴らしいものに対して、いつも心の窓を開きながらも、それを自分事として捉え直すべきだ。周りの「いいもの」を自分の経験という地面にしっかりと植えて、自分だけの花を咲かせること。そのようにして、主語を「私」にして取り入れていく丁寧なステップを積み重ねることこそが、私たちが本当に自分らしく生きていくための道なのである。