手助けは良いか

   中2 あさくに(asakuni)  2026年7月1日

  私は学校の授業などで、完璧に理解し全体像をつかめたら本当に無双できるのだが、少しでもその全体像が欠けたらとことんわからない人なのだ。このような私には当然助けが必要な時があるし、多くの場合それはクラスメイトに助けてもらっている。他の生徒から教わるともちろん教師の授業よりはわかりにくいが、「どういう意味?」と聞いたら相手が傷つくだろうな」と思い、普段使わないような脳の部分を駆使している感覚がある。多くの場合脳のフル回転で大体理解できるので、その時は何事もなかったかのように「有難う」と言う。この瞬間、あたりが幸せでほんわかしていると思う。



手助けの良さは自分と戦うことと他者を助けるという二つの行動を同時に実行できるというウィンウィンの関係があるからである。私もこのようなシチュエーションは数多く遭遇したが、人を助ける、手を差し伸べるというのは大変勇気のいることだ。相手は本当にその助けを必要としているのだろうか。相手は助けてもらって嫌がるのだろうか。そして何よりも自分の時間はベネフィットに値するのだろうか。このような疑問と戦い、自分の愚かさと醜さを思いっきり殴ることにより、自分の中で何かが永遠に変わり、自分は成長することができるのだ。もちろん、ほとんどの人は助けられて嬉しいと思うので、彼らは絶対的な喜びと感謝の気持ちを抱きながら、残りの一日を過ごすに違いない。ここで私が取り上げたいのは、「手助け」という行為は多くの場合、相手の喜びに焦点を当てていると思うのだが、実はこの行為によって最も影響されるのは自分自身だということだ。よほどのひねくれ者ではない限り、手助けは「嬉しい、喜ばしい」と解釈され、感謝もする。しかし、自分は自分の行為により、自分に大声で、「有難う、僕」とは言わないし、多くの人はそのちょっと成長した自分にも気が付かないと思う。だが、この日々の小さな挑戦、困難、そして自分の内なる変化を意識することによって、何か自分の中に見出すことができるかもしれないし、よりすごい飛躍が可能になるのかもしれない。

しかしながら、手助けにも相手の邪魔になる可能性という負の面も存在する。例としては「自分が電車で自分よりも年上の方に電車の席を譲ったら、向こうが自分の若さを侮辱されたと思い、逆切れする」などがある。もちろんどのような行為にも正の面と負の面がある。ある人が良かれと思ってやった善良の行為だとしても相手からしては余分なお世話だと解釈される可能性もある。このように絶対的な判断により人助けも解釈により裏返ってしまうのは非常に残念なことだ。私が約2か月ほど前、名言として引用したニーチェの「世の中に真実はなく、すべては解釈だ」という言葉の意味がこのような場面にピタッとハマるとゾゾゾっとしてしまう。この解釈論は世の中の本当の真実であり、全ての人を形作っているのかもしれない。このような構成要素から形作られた全人類はもちろん自由気ままに判断し、相手に不快感を与えかねない。このような人類の連鎖反応の中で生きとし生けるものはこのような矛盾への衝突は必要かと思うが、それでもエゴセントリックな考え方も逸脱しがたい。この大問題に私に考えられた唯一の解決策はこの滑稽な矛盾と共存するのに他ならない。このような前提となる知識があることにより、この矛盾の拒絶反応は少し和らぐだろう。

手助けのウィンウィンの関係も手助けの邪魔になることがある可能性も全て尊く、捨てがたいのだが、一番重要な事実、シンテーゼは、経験の応用性なのかもしれない。先程私は経験が損なわれると述べました。無論経験をする機会が増えるということは助けてくれる人が減るという事。もちろん他の人が助けてくれたのを機に新たなことを学ぶのは確かだが、それは学ぶ姿勢による。本当に心が清らかで親切な人は「助けてくれた人が自分にこれを教えてくれるのが当然ではない、当たり前ではない」と考え、教えてくれた全ての情報をなるべく100%吸収しようとする。このような人たちはもちろん自分の無知だった領域を埋め、少し賢くなる。だが、偉そうにしている人たちにこれは効かない。あの人たちは「教えてもらっているのが当たり前、自分が理解できなかったのは先生の教えが悪いから」という口実のもとで動いている。悲しいが、このような分かり合えない人々には体で覚えてもらうしか方法はない。「体」と言っても、手錠を括り付けて、鞭でベシべシ叩くのではなく、ただただ手を差し伸べないのだ。古代から日本には「獅子は我が子を千尋の谷に落とす」という諺が存在していた。意味としては、獅子、または相手を愛する者が、その相手にわざと辛い思いをさせることにより、成長してもらうという事である。ここで多くの読者様は、「ちょうど先程まで、あたかも悪意を持って手を差し伸べないと言ったと思うのだが、なぜこの愛の名言と関連するのだろうか」と疑問に思っているだろう。しかし、前述したような質問の本質は実は本当に薄っぺらな推測で全く事実ではない。逆に、私の「わざと見放す」という言葉の裏には愛がこもっているのだ。不運なことに今年の6月20日亡くなったシャンソン歌手、美輪明宏さんの有名な肉筆の手紙に書いてあった愛の本質について私は長い間考えていた。私のような中二の生徒になるともちろん周りは恋愛一色ですし、私の親友でもあった一人の友達も恋愛によって悪い方へ変わってしまった。半年ほどこの「恋・愛」の件について熟考していたら、美輪さんがなくなったと多くのニュース番組が放送し始めた。そしたら、とあるニュース番組が美輪さんの「恋は相手から全てを奪うが、愛は相手に全てを捧げる」という名言が紹介されていた。この時ふと全てが繋がっているという感覚を覚えた。私の敬愛する岡本太郎の「無条件理論」とこの「恋・愛関連性」がピタッとはまり、「あゝそうだ。相手のことを好きでなくても、少しの希望、見えていない部分があるんだ。その部分のために厳しく、育成してあげよう」と思って、結果に至ったのだ。最初はすごく懐疑的だったが、今となると本当に愛は多くの課題の特効薬なのかもしれない。