関わりを大切に

   高2 ヨーヨ(waoho)  2026年7月3日

 人間関係は他者との繋がりだけでなく、自己の内部にある「こちら側の自分」と「もうひとりの自分」の対話のプロセスでもある。人間の本質的な問題は、人間関係を通じて自己の可能性をどこまで開花・跳躍させられるかだ。様々な人間関係の中で我々人間の精神は形作られるが、現代ではその関係を構想することができない人が増えているのが問題だ。

 その原因として第一に、ゲームやSNSの普及により、あらゆる物事が個人完結で済んでしまう環境が定着したからだ。すなわち、画面のなかだけで完結する生活は他者との泥臭い対話を奪い、誰かに相談して共に悩み、助け合うというプロセスを消失させてしまう。ネット上の記号的なやり取りは、他者の生身の感情に向き合う必要がないため、本質的には一人で完結している状態と変わらないのだ。その結果、他者への共感力が育たず、社会的な関係を築く力が出ないのだろう。例えば、僕も今年の学園祭の出し物を決める話し合いのなかで、まさにこれを痛感した。今年は食品を扱うことも可能になったため方針を決める必要があり、事前のライン上では画面の向こうの相手を深く想像することなく、システム的に容易に同意が集まっていた。しかし、いざ教室で対面の話し合いが始まると、生身の視線や空気に呑まれ、結局誰も発言しなくなってしまったのだ。画面上での擬似的な個人完結の関わりに慣れすぎていたせいで、リアルな人間を前にした際に、どのように意見を擦り合わせて関係を構想すればよいかが分からなくなっていたのである。つまり、個人完結の環境は、若者から人間関係を構想する実践的な機会を奪っているのだ。

 第二の原因として、社会全体で異年齢間における交流の機会が激減していることが挙げられる。つまるところ、地域における緊密な共同体が崩壊したことで、若者のコミュニティが同世代だけに狭まり、間違った行動を厳しく正してくれる大人が周囲に存在しなくなっているのだ。現代では、大人が若者に対して少し注意をしただけでもハラスメントなどと過剰に批判されるため、社会的な軌道修正を促す他者との関わりが遮断されている。例えば、かつての日本社会に存在した「隣組」のような組織では、近隣の大人たちが血縁の有無に関わらず、地域全体で子供の悪さを本気で叱り、導く文化が根付いていた。しかし、こうした異年齢の濃密な関わりが失われた結果、子供の頃に自らの歪みに気づけないまま大人になってしまう。ぬるい環境で育った人は、まるで多様な価値観が渦巻く社会を生き抜く免疫を持たないかのように、他者との関係性を正しく構築できずに孤立してしまうのだ。

 確かに、周囲と波風を立てず、上辺だけの浅い関わりでやり過ごしていく方が精神的には楽かもしれない。だが、「玉磨かざれば器を成さず」というように、デジタルや身内の殻に閉じこもるのをやめ、異なる年代や考え方を持つ人とつながりを泥臭く構想していく勇気を持つことなのだ。