審美眼

   高3 たくま(aiyono)  2026年7月1日

  流行に流されてしまうというのは、どうも人間の性のようでいて、抗おうにも抗えない人が大多数なものだと思う。しかし、そうでなくては資本主義というものは、前提からして崩壊してしまうシステムであるし、人間のこのような性がなければ、今日に至るまでのこの人類の発展というものも存在しなかったであろう。理性を勝ち得た唯一の動物たる人間の発展の帰依には、この欲求が多大に関与しているというのは否定しようがない。だが、昨今の社会ではこのような動きが活発になりすぎた傾向があり、それが故に有職故実の精神を忘れ、自らが心に何を追い求めるのかという探求を疎かにしてはいないだろうか。もし、このような動きが止めどなく続くとすれば、我欲にまみれた醜い社会が到来することは避けられないだろう。

 それではなぜ、このような流行にばかり流されてしまうような、そういった土壌の形成が行われてしまったのだろうか。原因はずばり、先鋭化する資本主義社会にあるのだろう。秋葉原を訪れてみればわかるように、今の日本に、侘び寂びの文化などこれっぽっちも残ってはいない。あるのは大量生産と大量消費が繰り返される、文明開化してしまった日本だけだ。無論、この現象は日本だけではなく、今やアフリカの原住民にまで浸透しているというのだから恐ろしい話で、小さな流行という名の波が周期的に訪れる、この狂気から解放されるのはいつになるのか、誰にもわからない。トレンドやミームといった言葉に代表されるように、極限まで切り詰められた、いわゆるコスパの良い遊びや音楽は、大衆の心を一瞬捉えたかと思えば、すぐに消え去っていってしまう。しかし、それもこれも、資本主義が理想とする現象なのであるのだから、正しいというほかない。それに反発する気力もない、いや奪われたといったほうが正しいのか、我々はただこの現状を甘んじて受け入れ、まさしく流行の波にただ流される藻屑なのかもしれない。

 そうした現状が更に加速すれば、より悲惨な未来が待ち受けていることは確かで、ここらで何かしらの対策を講じなければ、子孫に荒廃した国を残すという惨事となってしまう。であるからして、我々は今こそ、古典に回帰するべきなのである。そもそも、我々が日常的に悩んでいることなど、数千年も前に哲人たちが考え尽くし、その解決のヒントを残してくれているのであるから、現代にはびこる悩みなど大したことはなく、そうした対策本として売られている二束三文のものなど、見る価値もない。過去と現在で生活環境は激変しているとはいえ、本質を見抜く力は変化していないはずである。この資本主義の醜さで言えば、酒池肉林がいい得て妙だ。物質的な豊かさに溺れたものが、いかなる末路をたどるかというのは、2000年以上前の中国で議論され、我々に教訓として残しているではないか。目先の流行に流されないためにも、まずは古典に回帰することが必要であり、古典不要論などを捉えている人々もまた、そうした目先の利益のことしか考えられない哀れな御仁なのである。

 前提で流行欲なるものが、人間の発展に寄与したと述べたように、これは人間の性であるのだから、逆らうことはできない。しかし、抑えることはできる。哲学が人間の動物的な本能を抑え、道理という道を切り開いたように、我欲に塗れるというのは、人間がそこらの獣と変わらぬ地位へ落ちるという、人間を否定する行為に繋がりかねない滅びの道なのだ。本質を見抜く、流行に流されないというのも、まさしくそうした二項間の対立の代表例であって、資本主義社会の極地に生きる我々にこそ、その真価が求められていると言えるだろう。我欲にまみれ獣となるか、一旦は否定した理性を再獲得するか、人間としての決断をしなければならない局面に到達しつつあるだろう。