日本人のやさしさ!?
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年月日
日本人は、義理人情にからまれて、相手の頼みをむげなくことわるのは、どうしても、気が引けてしまう。義理と人情は、まったく意味が違うというのに、日本人はそれらを一緒にして、そこに日本人の独特な判断領域をつくるのだ。だから、日本人のノーは、全面的に否定しているというわけではなく、一部にイエスを含み、日本人のイエスは、一部にノーの要素を含んでいるわけだ。「そこをなんとか」という言葉は、相手の可能性の余地を見極めるため、という目的でも使われる。絵にも、その考えがあらわれている。日本人の好む「余白」とは、画家と鑑賞者の共有の空間であり、画家は鑑賞者に、その部分を預けるのだ。つまり、相手の可能性を見極めたりするために、あいまいな言いかたをするのが、日本人なのだ。
わたしは、図書館に向かう予定で、坂を下っていた。すると、行く手にクラスメイトの姿があった。
「やっほー。どこいくの。」
聞かれることを予想していなかったわたしは、思わず答えた。
「さあね。」
この「さあね」という言葉は、何も意地悪で行ったわけではなく、つい――、まるで本能のように出てきてしまったのだ。クラスメイトは、不満げな顔つきだった。
「教えてよ。どこいくの。」
聞かれて図書館と答えたが、今考えてみると、知りたがるくせも日本人なのかもしれない。そのあと、道を間違えてしまって、来た道を戻ると、クラスメイトに笑われてしまったので、結果的にほがらかに終われた。
学級会のとき、女の子が、別の子の意見に対して、手も挙げずに反対した。まだその子は言い切れていなかったのに、強い言葉だった。わたしは思わず叫んでしまった。
「絶対違うよ!」
おおっ、と声が上がった。クラスで、誰にも強く言えないわたしの初めての強い言葉に、みんな驚いたようだった。
女の子も驚いたようだったが、ぐっと、わたしをにらんで、
「だって、これは――。」
しかし、今度もわたしはいとも簡単にはねのけた。
「いま、発表中でしょ。聞きなよ。」
むぐっ、とだまった女の子に、みんな冷たい視線を浴びせかけているが、わたしの心は、なぜかズキッといたんだ。これが、日本人なのだろう。否定できない、否定したら、強い罪悪感にかられる。あやまることはできなかったが、いまは普通に接している。
もうひとつ、実例がある。友達の図工の作品を見て、上の余白について、聞いてみた。すると、友達はにっこり笑って答えた。
「将来をあらわしてるんだ。いまはこういう気持ちだけど、将来は、がんばれば何色にでも染まれるって。可能性をあらわしてるって言えばいいかな。」
余白の美をというものなのだろうか。なぜかその絵を見ていると、心が喜んでいる気がした。これも日本人なのかなあ、と思った。
日本人は、相手を否定しないのではなく、否定できないのだ。だから、あいまいな言いかたになってしまう。外国人はそれを狡猾なごまかしのようにとらえるかもしれないが、わたしはそれを、日本人なりのやさしさだと考える。どちらかに肩入れするわけでもなく、どちらかを否定することもなく、あいまいに答えてくれる。そのあいまいさが、日本人の「なんだかすてきなふんいき」をうみだしているのかもしれない。どちらにせよ、日本人は、可能性の余地があるか、という考えが大きい。絵も、可能性や想像力に任せるという思いで、余白を残しているのだと思う。余っていると、何かが落ち着く。それが、日本人の特徴なのだと、わたしは思う。