障害と付き合う

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 ユージンは街の中に障害者がいることで人の流れが変わらない街だった。そして、障害者と自然に向き合う街だった。イギリスの児童文学作家、ローズマリ・サトクリフの自伝、「思い出の青い丘」には「他の子供にはできるある種のことが自分にはできないことが、観念的にしか理解されていない」子どもの時期から、障害の持つ社会的な意味、自分と普通の人とを隔てる微妙な壁に気づき、それが人生に与える影響、「孤独」を知るまでが、語られている。傷つこうが、自分の責任で「苦境」に直面する。それを彼女は「傷つけられる権利」と呼んだ。この「経験を積み重ねてゆく自由を持つ権利」を我々は守っていかなければならない。

 確かに、私たちは障害を持つ人に手を差し伸べていくべきだ。なぜなら、何かしら障害を持っていると、生活する上で困難なことが出てくるからだ。ここでは、足が悪い人について考えてみる。足が悪い人と言えば、車椅子や松葉杖を使っている姿を想像するかもしれない。確かにそうである。しかし、日常的に足が悪くはない人は、遠く離れた疎遠の関係に等しいだろう。自分は車椅子には乗ったことがないのだが、松葉杖は使ったことがある。まずは、車椅子について話したいと思う。自分は前述したように使ったことはないのだが、母が使っていた時の状況を伝えたいと思う。約4年ほど前に、母とサッカーをしていて、自分が母の足をボールと間違えて蹴ってしまい母の足が折れたことがあった。その時に、病院に行くと一旦車椅子に乗ってくださいと言われの乗っていた。そのとき渡された車椅子は、自分の手で車輪を回して動く自走式の車椅子だった。それを母が使っている姿を見ていて、結構な力が必要そうで、細かい動きができずに難しいと思わず声を出していた。また、自分が友達の松葉杖を借りて歩いてみたことがある。自分は、案外使いこなすことが簡単と思っていた。しかし、実際に使うと肩が痛くなるし、車椅子と同様に細かい動作ができなかった。これらの経験から、足が不自由な人に限らず、障害を持っている人には特に親切にしたいと思った。(電車の優先席を譲るなど)そして、人間という生き物は、人を助けることで自分の心が豊かになり、その行為を見ている他者の心も豊かになり、何よりしてもらった相手が一番嬉しく、幸せになるのではないかと思った。

 しかし、前述したような親切をしすぎない方が良いこともある。なぜなら、人間は、自分が求めていない領域に土足で踏み込まれ、自律性やペースを乱されるストレスを感じるからである。いつだったかは忘れたが、足の障害を持っている人とその人に親切をした人の口論をテレビのドラマのワンシーンで見たことがある。そこで電車で足が悪い人が席を譲ってもらい、座る際に一旦荷物を持ってもらい、また立ち上がって降りる際に荷物を持ってもらって、肩を貸してもらいながら立っていた。その後、下車しようとする前に障害を持っている人が、親切をしてくれた人に言った。

「嬉しいけど、そんなに全部してもらわなくても、自分でできることもあるのに」

確かにその通りだと思った。障害を持った人も自分でできることぐらいあったに違いない。自分もそこまでされたら余計なお世話だと思って怒ってしまうかもしれない。つまり、障害を持っている人の意思も尊重してあげなければならない。

 確かに、障害を持った人に手を差し伸べることも、自らやろうとする意思を尊重するのも大切だ。しかし、一番大切なのは「私たちの人生は私たちが費やしただけの価値がある」という言葉があるように、対等な立場でみんなが一つの人生を歩み、それを全力で生きようとする姿勢である。その様にしていても、助けが必要な時やそう見えるときに親切をしてもらえるのが一番嬉しいのだ。