価値観の違いを認め合う

   小6 あきひろ(asiguru)  2026年8月2日

 みなさんには、字が読めないことを意識しつつページをめくり、もどかしい興奮を覚えたことがあるだろうか。兄の本で「漫画の描き方」がのっている本だった。「漫画の描き方」は、本来の目的からいえば、鑑賞のためにあるのではなく、実用のためにあるものだ。字が読めないため通常の音階を持たぬ歌だった。本の中には、古典という分類がある。歯の立たない物を噛んだようなつもりになって見当違いの解釈をすることも多い。だが、私にとっては、それこそが読書の楽しみである。

 日本のアニメに、「クレヨンしんちゃん」という面白いアニメがある。クレヨンしんちゃんは、感動する作品や面白い作品が両立できている。感動する作品では、ニ〇ニ一年に上映された「クレヨンしんちゃん 謎メキ!花の天カス学園」があり、ぼく、一人だけで号泣していたことを思い出す。クレヨンしんちゃんは全ての年代がその年代なりの楽しみ方があり、年を重ねることによって感動することが多くなる。だが、隣の友達は、同じ学年にも関わらず、一滴も涙をこぼしていなかった。なぜ?と思い、長文を見返すと「『われわれは、その答えを人から聞けばいい』のではなく、『漱石への対し方は読者の数だけあります』」とある。つまり、映画と類似して、同じ場にいて同じ映画を見ていても、全員が同じ感情になるわけではなく、同じ学年で同じ映画を見ていても、感じ方や受け取り方は人それぞれだからと考えられる。これは長文の「ある人には蝶と見え、また、ある人には蜂鳥と見える。しかし、どちらも真実」という場面にも当てはまる。

 長文には、「『漱石への対し方は読者の数だけあります』つまり我々のうちに作者の意図も超えて作り上げていくことなのだと思います」と記されている。この文章には、間接的に「価値観」という言葉が出てくると考える。なぜなら、「作者の意図も超えて」は人それぞれの感じ方でもあるからだ。母は、価値観が似ている人と関わることが好きである。価値観が似ていない人と関わるとなると趣味の違い、好きなアーティストの違いなどと自分と対立する関係性となってしまい、人間関係を崩れてしまうからだ。ぼくは、少し散らかっていても大丈夫という価値観でも、母は掃除だけをするというのは難しいので、移動するときに空手で歩かないでところどころをコツコツと掃除したいという価値観だ。父は、少しでも散らかっていると苛立ってしまい、すぐに片付けるという価値観だ。これはの母と父は類似する価値観の持ち主だからこそ、赤い糸で結ばれ、同じ場所で生活していてもストレスとならず、幸せに過ごしている。このような事実があるからこそ、母は価値観が似ている人と関わることが好きなのである。

 「十人十色」という四字熟語がある。人間は十人いれば十人ともそれぞれ違うという意味である。この言葉も間接的に「価値観」という言葉が出てくる。人間にとって価値観とは、人それぞれであり、十人十色である。だから価値観の似ている人と仲良くし、似ていない人とは、その違いを認め合うことが大切だと分かった。