ユーモアはオアシス

   小6 あえたし(aetasi)  2026年8月3日

 イギリス人はユーモアのセンスというものには、特別のプライドをもっているし、それについて敏感である。一方日本ではユーモア感覚はそれほど高く評価されていない。とても真面目な人は、欠陥人間と呼べるのではないか。自動車のハンドルに遊びがあるから安全に運転できるように、ユーモアは人生をわたっていくのに欠かすことができないものだ。ユーモアは論理で解釈できるものではなく、それを受信する感性の装置を備えているかどうかだ。ユーモアは口で説明できるものではなく、ユーモラスと感じるか感じないかというセンスの問題になるのだ。

 ぼくのクラスの先生はとても厳しい。ユーモアのかけらもない人だ。そんな先生によく怒られる友達がいる。例えば、授業中に先生に指されて答える時に、先生の質問と全く関係のないことを言って怒られたり、掃除の時間にふざけて怒られたりしている。数学の授業で、グループワークをしている時のことだ。先生は「みんな静かにやってください。ふざけたグループは減点しますよ」と注意したので、みんなは真面目に、緊張感をもって取り組んでいた。その時、突然窓から強い風が吹いてきて、天井からペンキが剥がれて、ひらひらと教室の至るところに落ちてきた。すると「天井の皮が落ちてきた。天井が脱皮したぞ」と、その友達は驚いて、大きな声で叫んだ。みんなは一斉に爆笑して、クラスは一瞬で雰囲気が明るくなった。しかし先生は、まるで獲物を待ち構えていたように、このタイミングを狙って「静かにしなさい。全体責任として各グループから減点します」と怒った。先生の声に、クラスの盛り上がりはすぐに収まった。ぼくは減点されたのは嫌だったけど、友達のユーモアのおかげで、沈んでいた気分が一瞬で生き返ったと感じた。みんなもお互いを見て、こっそり笑い合っていた。

 夏休みに日本に遊びに行ったときのことだ。熊本で再び大きな地震が起きた。ぼくはその時、屋久島にキャンプに行っていて、ほとんど地震の揺れに気がつかないぐらいだったが、引率の先生が「家族の人が心配しているかもしれないから、動画をとって送ろう」と提案してくれた。ぼくは、動画を撮るときに元気に笑っていいものかと悩んだ。ぼくが元気だったら家族は安心するけれど、地震のときにはしゃいでふざけたら、不真面目だと思われるかもしれないと考えたからだ。お母さんに聞いてみると、テレビの地震のニュースを見て、同じことを感じていたと言っていた。たとえば、もしぼくが熊本で会社を経営している人だとして、テレビのインタビューに「地震のおかげで、毎日熊本のニュースが流れるから、私の会社も有名になれるでしょうか」と冗談を言ったとしたら、きっと不謹慎だと怒られるかもしれない。インターネットへ投稿したら、さらに炎上騒ぎになるだろう。日本の社会は、周りの状況にあわせることが重視されてきたので、社会全体が悲しむべき空気になると、それにあわせてユーモアを言うことも許されない雰囲気になるからではないか。

 ぼくは、ユーモアとは、さばくの中のオアシスのような存在だと分かった。自分がつらいとき、大変なとき、どんなに苦しい状況でも、ふっと息を吹き返させてくれ、また歩き出す力を与えてくれるものだ。しかし、ユーモアはタイミングが命だ。国や文化でも異なるから、とても難しい。そのセンスはすぐに身につくものではないと感じた。