言葉の変化

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 「食べられる」と「食べれる」、「見られる」と「見れる」のような「ら抜き言葉」が正しいかどうかだけを議論するのではなく、日本語は時代や社会の変化とともに姿を変えていくものであり、その変化について一人ひとり

が考えることの重要性が述べられていた。また、国語審議会は厳しい規則を作るのではなく、「ゆるやかな目安」を示す役割を担い、家庭や学校、社会全体で日本語との向き合い方を考えていく必要があるとしている。

 

 僕は、日本語が変化していくことは自然な流れだと思う。社会や生活環境が変われば、それに合わせて表現の仕方も変わるのは当然だからである。例えば、「やばい」は以前、「危険だ」「都合が悪い」といった意味で使われることが多かった。しかし現在では、「すごい」「おいしい」「かっこいい」など、良い意味でも広く使われている。また、「スマホ」や「ググる」といった表現も、登場した当初は新しい言い方だったが、今では多くの人に受け入れられている。このような変化を見ると、「ら抜き言葉」が広まることも、日本語が発展していく過程の一つだと感じる。  さらに、新しい表現には会話をしやすくするという良さもある。「食べられる」よりも「食べれる」の方が発音しやすいと感じる人は多く、友達や家族との日常会話では自然に使われている。実際に、このような言い方をしても意味が伝わらず困ることはほとんどない。また、SNSでは短く分かりやすい表現が好まれるため、新しい言い回しが広まりやすい。このように、コミュニケーションを円滑にするという点でも、新しい表現には一定の役割があると思う。

 一方で、昔から受け継がれてきた表現を守ることも欠かせない。例えば、面接や入学試験などでは、「食べれる」「見れる」ではなく、「食べられる」「見られる」を使う方が、相手に丁寧で信頼できる印象を与えられる。また、正しい文法を学ぶことは、日本語の歴史や文化を理解することにもつながる。そのため、日常生活では変化した表現を使うことがあっても、公の場では標準的な日本語を使い分ける姿勢が求められる。

 これらのことから、新しい表現にも昔から使われてきた表現にも、それぞれ異なる良さがあると考える。どちらか一方だけを正しいと決めるのではなく、場面や相手に応じて使い分けることが最も重要ではないだろうか。普段の会話では親しみやすい言葉を使い、公の場では正しい日本語を意識することが大切だ。親しみやすさと正しさは対立すると思うが、僕は、この二つが日本語を豊かにすると思う。そして金田一春彦が、「言葉は生き物である」と言うように、日本語は時代とともに変化しながら、伝統も受け継いできた。だからこそ、変化と伝統を対立させつのではなく、互いの良さを生かしていくべきだと思う。変わることと受け継ぐこと、その両方が日本語というものを作っているのだと思う。