ユーモア
小6 あこふゆ(akohuyu)
2026年8月4日
まずこの長文は、ユーモアとは自動車のハンドルと同じでユーモアと言う遊びが無いと安全運転はできない。そして遊びがあれば安全運転ができる。ただ、ユーモアとは論理で解釈できるものではなく、これを受信する感性の装置を備えているかどうかでわかる。そしていくら知識があってもそういったダジャレだのなんだのかんだのは解釈できないのである。ユーモアとはユーモラスと感じるか感じないかと言うセンスの問題になってくるわでだ。と言う長文だ。
ある日父と誰かと外出をした。そうしたら信号のない横断歩道にやってきて、車が通っていた。そうしたら父がみんなを笑わせようと思ったのか、
「クルマが来るまで待とう。」
とたいていつまらないでも一応ユーモアはあるダジャレを言った。そうしたら自分では絶対に面白かっただろ。と思い、
「ドーダー。」
と自慢げに言った。しかし私は
「うん。つまらない。」
と吐き捨てた。でも
「君にはまだこの面白さが分らないか。」
と言っていた。それに父は中小規模の事務所をやっていてすこしだけ有名人だ。それはまるでユーモアがあってユーモア人だ(有名人だ。)のようだ。
ユーモアのない人、世界は会ったことは無いけれど、もしもそんな人や世界に住んでいたり会って話をしていたりしたら少しどころかとてつもなくつまらない。例えば一緒に遊んだりしたとき、片方は面白い人で片方は全くユーモアがない人だったら、ユーモアはあるけれど一つのダジャレなどでいちいち反応がないと面白くない。なので私はつまらないと思う。
ユーモアは人間にとって使わなさ過ぎてもつまらなくてまるで機械のようにさびて行ってしまい、使いすぎても油を大量に付けた機械のように少しだけばらついてしまう。なので程よく使うものだ。私は学校ではたいてい面白いことを言っていて友達もたくさんいて人間関係はいいほうだとは思う。しかし家では打って変わってまさに「借りてきた猫」のように別人になって
「もうちょっとかわいらしく返事して。」
とかの理由でよくケンカになる。ので家族の中では、家の中では全くユーモアがない人なのである。