自然の奏でるハーモニー(感)

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 自然の奏でるハーモニー

 作曲に集中している時ほど、作曲家は音に対して傲慢であってはならないだろう。人間が自らの都合だけで音を支配し、無理にコントロールしようとすることは大きな間違いである。音にはそれ自体の命があり、独自の自然な姿や響きを持っている。私たちは自分たちの力を過信することをやめ、世界のあちこちに満ちている沈黙や音の存在に対して、どこまでも謙虚でなければならない。人間のエゴで勝手に音を切り刻むのではなく、その内側にある本質的な声に深く耳を傾けること。それこそが、音楽を創り出す人間に求められる本当の姿勢である。 

 私たちは自然から多くを学ぶべきだ。蛇口をひねればきれいな水が出て、壁のスイッチを押すだけで夜でも部屋が真昼のように明るくなる今の暮らしの中で、私たちは環境の大切さを忘れがちになっている。人類が作った便利な機械に囲まれた生活はとても快適で、我々も万物の一部として生きているということを、ついつい忘れてしまう。しかし、私たちの命を支えているのは、冷たいコンクリートの床ではなく、どこまでも深く温かい土だ。便利な暮らしの影で、私たちが失いかけている人間本来の生きる知恵が、野山の世界には今も変わらずに眠っている。私たちは今一度、都会の靴底を脱ぎ捨てて、自然という大きな教室の門を叩いてみるべきではないだろうか。

 第一に、自然は私たちに「時間をかけること」の大切さと、本当の我慢強さを教えてくれるからである。すべてがボタン一つですぐに手に入る便利な社会とは違って、その流れには、こちらの都合が絶対に通用しない特別な時計がある。私は小学二年生の時、学校の授業でミニトマトを育てた。苗を植えてしばらく経った頃、私は早く赤い実が食べたくて、まだ青くて小さな実を毎日のように触っては「早く大きくなれないかな」と心の中で急かしていた。早く結果が欲しいと焦る気持ちは、今のスピードばかりを求める生活に慣れてしまった現代人の弱さなのかもしれない。私はトマトの前にしゃがみ込んで、「あなたが一番美人だよ」と、とにかくたくさん優しい言葉をかけて応援した。しかし、いくら水をたくさんあげて褒めちぎっても、ミニトマトは私の焦りなんて気にせずに、自らのペースを守って少しずつ、時間をかけてきれいな赤色に染まっていった。もぎたての真っ赤な実を口に含んだ瞬間、驚くほど濃厚な甘みに包まれたあの感動は、今でも私の記憶に鮮烈に焼き付いている。自然の時間は、誰のわがままで一秒も進めることはできない。私はこの辛抱強く待つことで実を結ぶという、自然界の確かな原因と結果を経験したことから、ただなんとなく待つのではなく、目に見えない成長を信じてじっくりと時間を育てるという、本当の心の豊かさを学んだ。

 第二に、自然はいろいろな個性がお互いを否定せずに一緒に生きる「調和の仕組み」を教えてくれるからである。違う性格や特徴を持つ生き物たちが、お互いを仲間外れにせず、足りないところを補い合いながら一つの大きな命の輪を作っている。私は学校で合唱部に所属しており、ソプラノの上、いわゆる一番高いパートを担当している。主旋律を歌うこのポジションは華やかに見えるけれど、実はとても難しい。今は私たちのソプラノの声が圧倒的に大きくなりすぎてしまうのが課題で、全体のハモりを壊さないように、周りの音を聴いてバランスを合わせることに日々苦戦しながら頑張っている。自分をアピールするだけでなく、下で支えてくれるアルトの深い響きなど、他のパートと見事なバランスで重なり合って初めて、一つの美しい曲が完成するからだ。実は緑豊かな世界の生き物たちのつながりも、この合唱の舞台とまったく同じお互いを支え合う構造を持っている。天を仰ぐ巨木から、地面の片隅を静かに覆う地味な苔、さらには肉眼では捉えきれない小さな生き物にいたるまで、どこか一つの存在だけが大きくなりすぎることなく、完璧な相互補完のバランスで地球という大きな舞台を支え合っている。この多様な命が共生する仕組みは、クラスの中での自己の役割や、周りと違うことに悩んでいた私のモヤモヤした気持ちを、一瞬できれいに消し去ってくれた。

 確かに、ヒトが科学の力を進歩させて、天災から身を護ることで、私たちは昔よりも安全で安心な暮らしを手に入れることができた。台風や地震、怖い病気の流行といった驚異を考えれば、社会が頑丈な街を作り、環境をコントロールしようとするのは、生きていくために当然の行動だ。ありのままに生きることだけが、必ずしも私達にとって幸せだとは限らないという反対意見の理由もよく分かる。しかし、だからといって大いなる営みを完全な敵だと考えて、人間の都合だけで地球を埋め尽くしてしまえば、私たちは自分たちの生活の基盤を自分たちの手で破壊するという深刻な因果関係を招いてしまうのではないか。当人もまた、自然という大きな絵画の一つのピースに過ぎず、そこから離れて一人だけで生きることはできない。

 昔、子どもの教育について深く考えたフランスの有名な思想家ジャン=ジャック・ルソーは、そ

の本の中で「万物は神の手をはなれるときはすべてが良いものであるが、人間の手にうつるとすべてが悪くなる」という強い言葉を残した。この言葉は、人類が自分の力を信じすぎて、天然の恵みを思い通りに支配できると勘違いすることの危うさを、何百年も前から私たちに教えてくれている。私たちは技術を進歩させて便利さを追い求める一方で、自然に対する謙虚な気持ちと、その静かな警告を聞き漏らさない客観的な視野を持ち続けなければならない。周囲からのメッセージを無視して、見た目だけの便利な街を作り続けることは、私たちが自分の手で未来への架け橋を焼き落としてしまうのと同じだ。文明を進めたいという利便性の追求と、環境保護の意識は、どちらか一つを選ぶものではなく、天秤のようにちょうどいいバランスを保ち続けるべきなのだ。

 

 したがって、地球が持つ大いなる営みにいつも目を向けて、そこから人間としての生き方のヒントを受け取ることが大切だ。

 私たちは今こそ、四角いスマホの画面から目を上げて、アスファルトの隙間から顔を出す雑草の強さや、季節が変わっていくときの潔さに学ぶべきである。自然は決して言葉をしゃべらないけれど、私たちが本気で問いかければいつでも、教科書に書いてあるような決まった言葉ではない、心の通った答えを返してくれる。効率やスピードばかりが大切にされる毎日だからこそ、自然という濁りのない鏡の前に立ち、自らの心の声にじっと耳を傾けながら、人間として本当に大切な生き方とは何かを、これからじっくりと見つめ直していきたい。