変化するとは
中1 あおやゆ(aoyayu)
2026年8月4日
作曲に集中している時、不意に、音楽というものが自分の知力や感覚では、捉えようもない(神秘的な)ものに思われることがある。音楽という有機的な流れの中ではその(一つの和音の)響きは千変万化するもので、その表情の豊かさは、あるで生き物たちのようである。作曲は音と人間の協同作業(コーポレーション)だと思うから作曲家は音に傲慢であってはならないだろう。私たちは自然に多くを学ぶべきだ。自然のもののよさを理解し、ただ材料として使うのではなくアイデアやインスピレーションを得ると良い。
第一の理由は変化するからだ。プラスチックや合成繊維でできたものは人間にとって使用するという目的があって作られているため実用的ではある。そう簡単に壊れないし、長い年月がたっても姿形はあまり変わらない。では自然のものはどうだろうか。自然の中にある苔や石、木。人工のものとは違い、常に形が変化する。苔なんかでは私が足で踏んだり、上に物を置いたりするだけで弱ってしまう。プラスチックとは違い、常に同じ形ではない。これだとまるで人工物の方が実用的でイイようだ。自然物と人工物。両者の中で決定的に違うのは変化の仕方だ。人工物は劣化することが少ないけれど優化することはない。しかし、自然物の場合は枯れたりかけたりとすぐに形が変わるが元に戻ったり、他の形に変化したり、と劣化することはない。環境や地震の置かれた状況に柔軟に姿を変えている姿が人に「生きている」ということを感じさせる。植物の変化に世の中や人生を倒影させられるからこそ人工物よりも自然物の方が人の審美眼に美しく写るのだろう。平家物語の冒頭にある「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という言葉は平家物語の世界観を的確に表しているといえる。初めは力を持っていて天皇の親族もなっている平家がこのまま繁栄していくように思えたが、壇ノ浦の戦いで源氏に負けてしまった。変化することでマイナスにもプラスにもなるという賭けのような世間のように移り変わり、年季を帯びていくものに魅力を感じるのかもしれない。
第二の理由は人工物には自然物のような幾星霜の年月を歩んできた深みや儚さがないからだ。昔、読んだ本に日本人がすぐに散ってしまう桜をなぜ大事にするのかという話があった。満開からわずか一週間くらいで散って葉桜になってしまう。日本人はそこに潔さや儚さを見出し花が枯れずに美しいまま散っていく様子に無常感や美学を抱く。桜に限らず人に花を贈ることは多いが、生花はいずれ散ってしまうのである。私はドライフラワーを作ったことがあるが、結局形は保っていても香りや質感、色にはどうしても劣化してしまった。最初のうちはずっと綺麗で崩れない。コストパフォーマンス的にもとてもいいと思ったが変化がないから飽きてしまった。散ったり、咲いたりと変化があるから美しいのだ。女優でも若い頃の美しさを止めるために薬や手術でシワを無くしたり白髪を染めたりする人もいるけど、私は自然な美しさを保ちながら年齢を重ね素敵に年を重ねている人の方が好きである。ドライフラワーのように美しさを永遠にとどめていても外からは見えない内面では変化している。無理な若づくりをせずに老いていくのが一番良いと思う。
確かに人のために作られていて洗練された壊れにくい実用的な物を使うことで生活を便利にできる。また変化しないからこその安定感や安心感がある。変化を恐れるのも人間の性質であってなるたけ変化しないようにと工夫するのは安全や安寧を求めるのはいいと思う。しかし、「水は雲や霧、雨や雪へと姿を変えるが、その本質は決して失われない」という黒田官兵衛の言葉があるように、変化をしても本質は変わらない自然から物事を学びたいものだ。変わらないことに安心するのではなく変化していくことを柔軟に受け止めてプラスの方向に好転させていく人になりたい。