論理的思考+知識=国際人
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年月日
国際人とは、外国人などの文化に差がある者を相手に、自分がどう思っているかをはっきりと伝えられている人のことだと、筆者は考えている。日本人は、論理というものが欠ける傾向にある。それは、知識を中心に学習しているからだ。アメリカでは、自由に調べる宿題が出ることはしょっちゅうだ。調べるために、どこへ行き、なにをし、なにを学ぶか、その過程が大切なのである。「過程」を知ることにより、大きく成長してからも、順序だてて、論理的に意見を言うことができるのだ。一方の日本人は、知識やテクニックばかりを習得し、同じく大きく成長してから、議論などしてみると、自分の考えが言えない、などということになる。論理的思考を育むには、「言葉」を大切にすることが効果的だと、筆者は考えている。むしろ、言葉があるからこそ論理的思考がうまれるということも、過言ではなさそうだ。国語教育を充実させることも重要である。もちろん、意思疎通に、言葉が必要ないときもある。だが、日本人が国際人として生きるとき、意識しなくてはならない問題だというのは明らかだ。
わたしには、国語や図工が大好きで、理科や社会などの暗記科目は大嫌いだ、という友達がいる。国語の成績はずば抜けていいのに、理科や社会などとなると、ぐーんと落ち込む、そんな子だ。その子には、特技が一つあり、その特技とは、意見を伝えることがうまい、ということだ。どんな反対意見を持っていても、その子に指摘されると、自信を無くすほかない。
「ぼくは違うと思うよ、だってさ――。」
対抗した男の子が理由を言おうとしてつまる。それでも、その子は顔色一つ変えないまま、にっこり笑うのだ。
「じゃあ、これだったら、そうなるの?これによって私の考えが証明されると思うんだけどな。」
まさに、立て板に水。それを言われると、おしまいだ。男の子は「たしかに―」しか言えなかった。
今思ってみれば、まるで催眠術みたいだった。
国語力が高いからかな、とくすっと笑う。わたしも、意見をしっかりいえる子になりたいな。そう思わせてくれた。
けれど、わたしは国語も算数も、もちろん理科社会もすべて好きだ。それに得意だ。わたしも意見はきっちりいえる方だと自分でも自覚している。先生からも、伝え方がうまいと褒められる。理科や社会は、暗記科目で、要約を見れば、マイナスなイメージを持つひともいるかもしれないが、知識をたくわえることによって、国語などにもつながる。わたしは前、旅行に行ったとき、ある発見があった。
「あっ、ここ、世界遺産だよね。」
すると母も、「そうなんだ。確かにそんな感じ」と笑ってくれた。知識を頭に入れておくことによって、わたしの思考がパッとつながる。知識とは、そういうものだ。だから、知識だってそれほど悪くないとわたしは思う。しかし、やはり国語や図工、体育がない世界だったら、きっと混乱してしまうだろう。戦争にもつながる。円満にもめごとを解決したいのに、意見をはっきり言えないと、相手を怒らせてしまうこともある。論理的思考を育むことは、知識よりもやや大切なのかな、とわたしは想像して、顔をしかめた。
わたしは、国際人というものは、なにも外国語が話せたり、マナーが守れたりするひとではなくて、外国人や反対意見を持つ人に、きちんと自分の意見を言えるような人のことだとわかった。国語力が高いひとのことだ。けれど、あまりに強引なこともよくないと思う。強く反発するような頭の固い人だと、周りから信頼は勝ち取れないし、一人になる場合もある。それと、論理的思考が大切だが、知識も、今の社会で生きていくには大切な要素である。知識を持っていないと、いくら論理的思考ができるような人であっても、話の材料がないのだから意味がない。宝の持ち腐れだ。つまり、五対五くらいの割合で学べばいいというわけだ。わたしの学校では、アメリカの自由学習と似たようなものがある。週末に出される調べ学習では、なんでもいいから自由に調べてきて、という課題で、知識ばかりの日本でも、少しは、改善されてきたのかもしれない。国際人として生きるためには、順を追って、論理的に意見を言い、そしてその意見の中に、正しい知識を入れ込むことがよい。わたしはそう学んだ。