ユーモア家族
小6 ゆい(akakiyu)
2026年8月4日
ユーモア家族
先日イギリス人がかいたユーモアについてのものを読むと、「私たちイギリス人は「ユーモアのセンス」と言うものには特別のプライドを持っているし、また、それについて敏感である。「ユーモアのセンスがない」とイギリス人にいうのは「臆病者」や「ばか」などの悪口より侮辱となる。」だが、日本人はユーモアの感覚があまり評価されず、空襲で爆破されたデパートが「本日より入口を拡張しました」なんて看板を出していたら、不真面目だと言われるだろう。真面目な国から真面目を広めにやってきた人がいたらその人はもしかしたら「欠陥人間」と呼んでいいかもしれない。ユーモアは命を運転して人生を渡っていくのに欠かせないものなのだ。物理や数学などの真面目なものは一生懸命努力すればわかる。だが、ユーモアはユーモラスと感じるか感じないかというセンスの問題になるわけだ。
私の身の回りにも、最高のユーモアのセンスがある人がいる。それは私の父だ。私の父はアメリカ人で、普段からよくアメリカンジョークを言ったり、ふざけたりして家族を笑わせてくれる。特に印象に残っているのは、私のピアノの発表会の集合写真を撮る時のことだ。私のピアノの発表会では、集合写真を撮るのは全ての演奏が終わった一番最後だ。皆少し落ち着いたけども少しピリピリした雰囲気の中、客席からカメラを構えている父の姿が目に入った。父は私と目が合うと、少しふざけた顔で両手で大きくハートの形を作ったり、ウインクをしたりして、必死に私を笑わせようとしてきたのだ。周りの大人がみんな真面目にカシャカシャとカメラの音をならしている間、父だけが全力でユーモアを発揮している姿はおかしく、私は緊張や疲れを忘れて思わず吹き出しそうになってしまった。一瞬私が笑うと、父はその瞬間、急に真剣な表情になり、夢中でシャッターを押していた。その瞬間に私の張り詰めていた心が軽くなり、笑顔の写真が残った。父のふざけた行動は、私を最後の最後まで硬くなっていた緊張から救い出すための、最高のユーモアのセンスだったのだと思う。
そんな父の血を受け継ぎ、私もユーモアのセンスがあると自覚している。私は学校で、友達を笑わせるために、よく目を大きく開く変顔をしている。最近では友達も私の変顔に耐性がついてしまい、なかなか簡単には笑ってくれなくなったが、それでも最終的に笑ってくれるので嬉しかった。目を大きく開いて変顔をしている時の私の顔はまるで妖怪のようだ。前に、学校の人に「私の第一印象はなんだった」と聞くと、ほぼ全員が
「おとなしそうな性格。」
と答えていた。その時の印象と全く違ったからこそみんなも笑ってくれたのだと思う。また、変顔は家でもずっと続けているのだ。家では母に向かって、目を大きくする以外の変顔をしている。例えば、顔をはんにゃのようにさせたり、口を変な形に曲げたりして昔は笑わせられた。だが、そりゃ何年も続ければ母はもうすっかり慣れてしまったようで、全力で顔を変える私を真顔で見つめてくる。そのあまりの温度差に逆に私が吹き出してしまうこともよくある。たまに、母からも仕掛けてくる時があり、「ざわわ、ざわわ」などと歌を歌い、私が笑いすぎて地面に倒れてまるで死んだ魚のようになるまで笑わせてくることがある。父だけではなく、私の家族は全員ユーモアの血が流れているのではないかと思った。
ユーモアとは人間にとって心を豊かにするものだ。ただ場を楽しくするだけでなく、人と人との心の距離を縮める力も持っている。我が家は毎日笑いで溢れている。笑う門には福来るというようにこれからも学校や家庭で周りの人を少しでも笑わせられるような、ユーモアのセンスを磨き続けていきたい。