社会の家畜
中1 ゆき(aonari)
2026年9月1日
まず人間は、人間自身を飼育しているのではないか。ヒトを生物の一種とみなした場合、個人レベルではなく、人間自身がつくった社会システムに依存して暮らしている点からである。毎日、自転車などで鎖につながれて走っているイヌと、満員電車でゆられてオフィスに往復する人々との違いは、社会的・文化的な面があるかどうかや、鎖が目に見える具体物がどうかでああるとも言える人間は自らを自らで飼育し、順化している。は時には社会のシステムからはずれて自由に生活することも良いと思う。その理由は二つある。
第一の理由は、人間には、ゆりかごから墓場まで社会のシステムがつきまとうからである。生まれてから少し経つと保育園、あるいは幼稚園に入れられる。次は小学生、中学生、高校生、大学生と続く。そのプロセスを終えると、次は社会人となって社会の歯車になって回される。というのが大人になるまでである。つまり、放牧されている家畜と同じように、はたから見れば自由そうだが、少し自由の視野を広げてみると、自由ではないということである。
第二の理由は、毎日同じことをくりかえしていると、生きているという実感が持てなくなってくるからである。それこそ家畜のようなものだと思う。日本には、社畜というおもしろい言葉がある。社畜とは、会社に飼いならされ、自分の意思や生活よりも会社の都合を優先して働く人を指す造語である。つまり、長文に書いてある、自己飼育・自己順化された人間がこの人々である。
月曜日の朝礼で校長先生が、夏休みが終わると生活リズムが崩れると言っていた。ここで私は、ふと生活リズムとはなんだろうかと思った。当たり前のように使われているが、つまり、極端に言うと毎日同じことを繰り返せということではないか。私は、毎日同じことをずっと繰り返していると、絶対に退屈だと思う。気づけば一年が経っていたということもある。
確かに、少しのルールや秩序がないと、自由すぎてまとまらない。皆をまとめるためにはあるていどのルールや秩序は必要である。だが、「この世の広い戦場で人生の野営地で、黙って追い立てられていく家畜であるな!断乎戦う戦士であれ!」という言葉があるように、私も黙って追い立てられる家畜にはなりたくない。だから私は、時には社会のシステムからはずれて自由に生活することも良いと思う。