相対的と絶対的
中2 あえわた(aewata)
2026年9月1日
形は物の方にあり、形は物の属性だという。もう一方の見方では、形は頭の中にある。目がなかったら、ものは見えない。この二つのどちらかが正しいかはかんがても無駄らしい。形については、右の二つの面、つまり自分で相手とを共に考慮する必要ある。目は大変有効な感覚機だが物の大きさがわからない。人間は大きさを知ることができないので、物差しが売られている。視覚系は、その中に絶対座標を持ち込むようには進化してこなかった。逆に我々が「比例」とか「相似」を考えることができるのは、本来視覚系にそういう性質が存在するからであろう。
確かに、相対的ということは私たちにとって便利だ。まず相対的ということはどのようなことかを簡単に説明すると、ほかのものと比べたり、関係性の中で決まったりする様子のことである。例えば、テストの順位で友達と勝負するときである。やはり、人間誰しもテストなどでの実力を図る物で友達と勝負したがるのは自然なことだと思う。自分ももちろんそのようなことをやったことがある。毎回、Aくんよりも点数良かった、悪かったで奮起したりしなかったりする。そして、次も負けたくない、次こそ勝つという強い意志が、どのようなことに対してもたいせつである。この場合、テストの順位という比べられる物であるから、勝負できる。やはり、そのような際には相対的な順位というのは便利だと思う。他にも、服を選ぶ時も必要になってくる。なぜなら、AとBの洋服で迷っている時になんとなくいいなと思った方を買う方が楽だからだ。例えば、そのような状況になった際に、Aは60%好きで、Bは70%好きだから、Bの服買おう。のように、いちいち考えていると面倒臭くてたまらない。このように、迷った際になんとなくで比較しいいなと思った方を買う方がいちいち考え込むよりも楽であるのだ。つまり、相対的な考え方は必要である。
しかし、何事にも絶対的なものが必要な時がある。それがないと、中途半端になってしまうからだ。例えば、勉強とスポーツの両立だ。先月や先週はスポーツに専念しすぎたから、今月は絶対に毎日勉強を3時間すると決めていたとする。しかし、部活の仲間たちが遊んでいたり、自主連勝をしているのを見て、今日くらいいいかと考え勉強をしないとする。そうすると、実際の目的であった勉強もしっかりとできず、心の中では勉強をしないといけないという思いと戦いながらの練習になり効果的な練習にはならないだろう。また、今月は大会があるから勉強ではなく、毎日夜自主練をして大会に備えようと考えているとする。しかし、これもまた友達が違うことをしているからなでの理由でコロコロ変えてしまうと全てが中途半端な状態で終わってしまう。つまり、その週や月、年での絶対的な目標は簡単に変えてはならないし、変えてしまうと中途半端で終わってしまうと思った。
確かに、相対的なものも、絶対的なものも大切だ。しかし最も大切なのは「出来上がった規則をなんとか守ろうとするよりも、実態に合わせて規則を変えていくことが、真に規則を生かす道である」という言葉があるように、絶対的なものに縛られることなく、場合に応じて変化させゆことである。