価値のないもの

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都市住民は、すべてが役に立つという環境にならされているから、目の前に突如として何の役にも立たないものが出現すると、それだけで文化的衝撃をうけ、深く困惑する。そして、この困惑が新たな文化を創り出すのであり、噴水などはそのためのものであろう。にもかかわらず、噴水の水を停めるのは、水不足について都市住民の多くが心配しているという局面にそぐわないからだろう。この考え方が良くない。「そぐわないからこそ噴水は噴水なのである」という視点が個々には欠落している。噴水は、ただ水を噴き上げていればいいのである。

 私の私生活の中で、何の役にも立たないものは無いかと探索してみると、音楽、芸能、芸術、本、ミュージカル、スイミング等である。音楽などは、モーツァルトが活躍していた時代では、貴族のみがたしなむ上流社会の教養だったらしい。又、ピアノやスイミングなどは私の習い事なのだが、別にやらなくても生きていけるものである。スイミングだって、死と背中合わせになった局面では、何の効果もないだろう。そんな、役に立たないことを、皆が当たり前のように行っている世の中は、大分余裕があると感じた。

 学校にあるものを探してみると、算数と家庭海外の科目は生きていくために必要ないと思った。昔の人は、足し算と引き算、読み書き、料理の作り方を知っていれば生きていけていて、理科や社会などは、学問に優れた学者達のみが知っているものだと聞いたことがある。今は皆が勉強しなければならない主要五科目の一つに入っているくらいだから、それだけ今の世は、教養を身に着ける余裕というものがあるのではないかと思う。

 又、学校には明日への像という銅像や、光の庭と呼ばれる池があり、花や木などが咲いている庭がある。生徒たちはそれを見て何かをするわけでもなく、ただ眺める。私の場合、意味もなくその像の前で、毎日友達と、

「クモの巣かかってる」

とか、

「この人たち何処見てるんだろうね」

などと話題にしている。でも、ほとんど毎日同じことを言っているので、はたから見れば、まるで、同じ日を繰り返しているように見えるかもしれない。でも、毎日少しずつ違って、たまに、新たな発見をすることもできるのである。又、毎日同じものについてコメントを言うのはきっと、私自身の価値をその像に見出そうとしているからではないかと思う。もしこういう要らないものをすべてなくした世界だったら、すべての人が、生きることにいっぱいいっぱいになっていて、楽しくない世界になっていたと思う。

 要らなくてもよいものは、人間にとって新しい価値を見出せるもので、新たな文化の出発点なのである。世界は今要らないものであふれていて、それはすばらしいことである。