話し合い

   高1 あおさみ(aosami)  2026年9月1日

隣人間の紛争を話し合いで解決することの困難である。それは人間は、人に対する親近性と信頼性が強ければ強いほど、破られた時に怒りが増幅するからであり、隣人関係というものが特殊であるからでもある。だが、話し合いによる解決は、いつかまた従来の隣人関係を回復させる可能性を与えてくれる。一方で、今日の状況を踏まえると、ルールが発揮して初めて信頼関係が成り立ちうるわけなので、隣人の問題だから隣人同士で解決すべきだとも言えないのではないだろうか。

 私たちは、もめごとを話し合いで解決していくべきだ。

 第一に、自分自身が法や礼儀を守ることだ。

法を武器に争われた時、法を盾にして戦えば良いのではないか。当たり前だが、自分が法を犯さない限り、相手がそこを突いてくることは不可能だ。

そこで、まずは自分が法に遵守し、礼儀正しく生きるという姿が自然と周りとの信頼関係へつながるのではないかと考える。

 私は居心地の悪い制服が苦手だ。特に着たくもないスカートの中にポロシャツを入れるのが気持ち悪い。生徒の中には、スカートを短くしたり、ボタンを外したり、シュシュをつけたりと校則違反ギリギリのラインを攻めている人も一定数いる。その人たちを見て、私もポロシャツ出そうかなと思うこともあるが、校則をしっかり守ると先生からの印象も良いだろうと考えて堪える。自分が納得しないことでも、「郷に入っては郷に従え」という言葉があるように、その中でうまく過ごしていくためには、多少の我慢と従順な心も必要だと日々学んだ。

 第二に、自分の意見を発すると周りも変わるという経験ができるような教育することだ。

前、「イスラエルを旅していたとき」という長文を読んだ。その話はイスラエルでは「全員一致の裁決は採用しない」というものであった。私はその理由を物事はそんなに単純ではないから全員一致など起きないという前提があるからだと考えた。少し極端なのではないかと感じたが「イエスとノーにも様々な種類がある」という箇所によって納得した。つまり何十人もの人が全員そのことに賛成しているのであれば、独裁政治を疑うべきだということなのかもしれない。

 今日まで、誰かを選出するときも、昼休みのスポーツを決めるときも、大体多数決で採択されてきた。成長しても変わらず、より多くの人が手をあげるタイミングで手をあげている人も多いだろう。自己主張を恐れる姿勢を形作った原因は人それぞれだと思うが、その一つに、自分と異なる意見があり、そういう人ともうまく過ごしていけるのだという経験があまりないからではないか。皆がそれぞれしたいスポーツができる体育の授業もなければ、昼休みもない。学校で居心地の良い服を着ることすらできない。

常に、「同じ」を意識され続けてきているから、「同じ」でなくてはいけないと考えるのだと思う。

意見を発しても結局少数派に埋もれてしまう、先生や校則から抑圧されてしまう、このような経験をなくすことから始めるべきだ。

 確かに、相手が間違っていることを立証するために、裁判所に頼るのだろう。

しかし、「法とは物事を根本から解決するものではなく、白黒つけるものである」ように、もめごとの解決方法は話し合いであるべきなのだ。法や礼儀を守って互いの信頼を築き、一人ひとりが自分の意見を安心して発することのできる環境をつくることが大切だ。