コミュニケーションに必要なこと
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年月日
何ごとぞ花見る人の長刀
花見に平素の身分・階層をもちこむのは野暮というものだ。花見に行って武士の権威をふりまわすような輩は、「なんだサンピン、えらそうにするな」と町人どもから反発をくらうことになる。月見、花見、雪見といった集団的な観賞行為は、じつは、日本文化のなかでのコミュニケーションの方法でもある、といわなければなるまい。月、雪、花は人と人をむすびつける触媒なのである。西洋のように、しやべることが社交の基本になっているところでは、話がとぎれるとなにか気まずい思いをしなければならない。日本人なら、だまってなにかをながめることでも、会話は進行しうるのだ。芝居を「総見」するなどというが、これも舞台で演じられている所作をみながいっしょに見ることに意味がある。見ることに力点をかけた社交の場が、芝居の総見なのである。おしゃべり一本だと、話題がとぎれたときに、白々しい感じがのこる。共通の「見る」対象物を一つおいておけば、そういう緊張感はなくなる。しゃべりたくなったらしゃべればいいし、しゃべることがなくなったら、見ているだけでいい。日本の劇場がザワザワとしているのは、西洋の観劇エチケットからすれば、たいへん不作法なことかもしれぬが、それはそれで、ちゃんと機能をもっているのである。花見が最も庶民的なマス・レジャーであるのも故なしとしない。現代社会では、増加する外国人労働者や海外企業で、「言葉にしないでも伝わる」日本のコミュニケーション文化と、「言葉にしないと伝わらない」外国のコミュニケーション文化の違いによってできる壁と言うものが注目視されている。指示が曖昧なため、外国人労働者の孤立や、業務で深刻なミスが発生してしまうのだ。このように日本と外国ではコミュニケーションの仕方に大きな違いがある。どちらでコミュニケーションをとっても問題はないと思うが、このままでは、日本と外国との間に大きな壁ができてしまうのではないだろうか。私は外国のコミュニケーション文化を積極的に取り入れた方が良いと思う。その理由は二つある。
理由は、第一に、はっきり言葉で伝えたほうが、誤解や「言いたいことが言えない」というストレスが生まれないからだ。私はちょうど一週間前に、このことを実感した。中学校の文化祭の準備で、私は一人、字が綺麗だからと、大きい板三枚を使って看板を書く仕事を任された。みんなから字が綺麗だと絶賛されて嬉しかったので、私はこの大変な仕事を引き受けることにした。しかし三日後には完成させなければならない。学校終わり方毎日のように習い事にある私にとっては、放課後も残ることができず、とても大変であった。しかしみんなの期待を裏切りたくなかったため、私は文化祭準備時間休み時間いっぱいを使って、看板作りをしていた。ただ板一枚ならまだしも、三枚も書くとなると、相当の時間がいる。終わるか不安で、夜も眠れない日が続いた。友達は、私の異変に気づいてくれたようで、「手伝おうか」と声をかけてくれた子もいた。しかし本当は手伝って欲しいのに、私は「大丈夫だよ」と答えてしまう。これも日本人が遠慮をするような文化が、私の体にも染み付いてしまっているのだ。文化祭の準備時間では、周りの暇そうにしている男子に聞こえるような声で「疲れたな」とため息をつくが、周りの男子は大変そうなことに気づくだけで手伝ってくれる事はなかった。「暇しているならやってくれてもいいじゃないか。」と私はイライラした気持ちになってしまった。言葉で伝えたいが伝えられない。だが、どうしても気づいてもらいたい。そんな心身のストレスが溜まっていった。そして締め切りギリギリに、看板の作成がちょうど終わった。自分の中に溜まっていた何かが、ふっと一気に外に出ていったような気がした。もし私がはっきり言葉で手伝って欲しいと伝えていれば、自分の中でもこんなにストレスを溜めず、作業に取り組めていたかもしれない。
理由は、第二に、言葉に頼る、外国のコミュニケーション文化は、チームワークを高めることができ、大きな失敗を減らすことにもつながるからだ。航空業界の「CRM(乗務員リソースマネジメント)」の実例として、1970年代まで、世界の航空機事故の約7割は「機長への遠慮」や「遠回しな表現(空気を読むこと)」によるコミュニケーションミスが原因だったと言う。そこで、航空業界は、立場に関わらず「はっきりと事実と意見を言葉にする」訓練(CRM)を義務化したところ、世界の航空機事故の発生率は当時の10分の1以下へと激減したのだ。私の中学校では、尾瀬ヶ原と言う所へ行き、そこの自然環境問題について調べ発表する、いわゆる「地球学」と言うものがある。そして今日はその研究発表の日であった。私のクラスは7チームに分かれ、それぞれ研究していくことになっていた。しかし、あるひとつのグループは、コミュニケーションをあまり取れていなかったのか、作業が進んでいなかった。実際今日の本番でも、自分の読むパートがわかっていなかったり、一部発表資料が完成していなかったりした。一方で、しっかりと対話し、作業を進めていたチームは、みんなが共感できるような素晴らしい発表になっていた。このようにしっかりと言葉を使う事は、チームワークを高め、本番では、その分良い成果を発揮できるのだ。
確かに、言葉にしなくても相手の気遣いや不満を察知でき、和を保ちやすかったり、空気を読んだりできるため、日本のコミュニケーションの文化を取り入れた方が良いと言う意見も非常に納得できる。私も多くの場合、周りの人を傷つけないようにするために、この日本のコミュニケーションをしているが、やはり場合によっては外国のコミニケーションをすることもある。コミュニケーションに、本当に必要なこととは、外国の文化を受け入れつつ、日本の文化も大切にするということなのではないだろうか。「優しさが、性格の弱さであってはならない」と言う名言をご存知だろうか。日本人の文化として相手に譲ると言う習慣があるが、これが優しさではなく、自分は相手よりも立場が弱い存在だからというような、性格の弱さが理由であってはならない。今世界のほとんどの人は、日本人たちはとても謙虚で誠実な人だととっくに認識している。私は、このような素晴らしい日本のコミュニケーション文化を自分の中に入れつつも、言葉をはっきりいうような外国のコミュニケーション文化を積極的にとっていくことが大切だと考える。これからは空気を読みつつ、自分の意思をしっかりと言葉で伝え、自分にとっての最高な人生を切り開き続けていきたい。また円滑な人間関係を築き、世界を見る視野をさらに広げていきたいと思う。