視覚系は
中2 あさくに(asakuni)
2026年9月1日
要約:視るということは非常に有能だ。逆のその有能さゆえに我々に重要なことから目をそらそうとしているのかもしれない。筆者はそれを悟ったようだ。暗闇でただただ触覚的な感性から得られた情報は脳で再度構成され、認識される。しかし、それにより全体像は多少つかめるかもしれないが、事実上ただの想像に過ぎない。本当の大きさ、サイズが分からない限り、それは欠点なのだ。なので、昔の人々は月と太陽を同じ大きさだと思っていたのかもしれない。この進化の過程で損なわれてしまった能力は決してホモ・サピエンスだけではなく、哺乳類全般だ。人などの目はカメラのようで光が網膜に反射されることによって、映像が映し出される。しかし、これは一方的なものの存在だけを証明するのであり、絶対的座標は一切分からない。この作文で使われていた例を用いると、ネズミはライオンと遭遇した際は相対的違いで危機を察知するのであり、その体格のデータなどは不要であるという事。ここまでとことん悲観したが、実は興味深いもある。目の網膜は人間の構造上脳の延長であり、比例・相似の確認は脳のもう一部分が第三者目線から察知しているかもしれないという事である。
相対的な判断のメリットは己を追い込むことが可能だからだ。日本人という民族は特にこの相対的な判断が強く根付いていると思う。学校に行っても、グループワークが多く、個人での発言の機会はそこまでない。このようにして育っていった将来の日本列島を担ってゆく人々は世界に通用するのだろうか。米国などでは多くの個人発表があったり、個人が輝く機会が多く設けられている。日本でもそのようなものがないとは言わないが、クラスなどでこのようなコンクールに出ないかと言われて、「はいっ」と答える人は今まで指折り数えるまでしか見たことがない。ここまでデメリットを言っているが、もちろんこの現象の長所もある。日本国は1968年から2011年までアメリカの次にGDPが高かったのである。良し悪しあるにせよ、相対的判断は当時からあったはずだ。特に受験戦争や社会人になった時の競争が凄かった所もある。そういう極度の競争の中、物事は進歩するのだ。大胆に言ったらそれが資本主義だからだ。競争が激化したら、個々の負担も増えるが、成長もする。そして何よりも競争の起爆剤として活躍しているのが本題の相対的な判断である。あまりの同調主義民族のために、一億総中流でしか皆の願いがかなえられる方法がなかったのだ。万が一、「私は周りの目などを気にせず昨日の自分と戦うのだ」と当時の全日本国民が宣言したら、GDP二位の経済大国まではいかなかったであろう。無論先週、昨日、ついさっきの自分と戦うのも大切な競争ではあるが、私の14年の経験と考えから見て、それは周りと競争するよりも難しく、時に効果が表れにくい。実は私もこの考えに基づいて日々自分を鼓舞し、周りより頭一つずば抜けた存在になろうと努力している。嫌らしい例えではあるが、日々のミニテストや学年末試験などの点数を友達だけでなく、知り合いなどに聞き、自分より高かったら死ぬ気で頑張るというなんとも原始的な方法を取っている。この営みの過程で気付かれないようにするのも一つの娯楽である。このようにより物理的で絶対的な他者がおり、敵意を見せることが可能な分、自己消耗や成長が可能になっているのだ。
しかし、絶対的な価値を信じるのも心の安心になるのがメリットである。昨学期私は来る日も来る日も容赦なくやってくる学校に苛立ちや恐怖まで感じていた。布団に入ったら、「ふーやっと寝れる」ではなく、「次にここから出るのは明日という日が始まった時なのかぁー」と思うほどだった。このような精神状態のままもう二週間ほど生活をしていたら等とうとう恐ろしい虚無感に襲われてしまったのだ。何をやっても「あゝ無理だ…」と思い、人生に無意味な香りが漂っていた。これはほぼ毎年やってくるいわば「波」のようなものなのだが、去年の私にはおととしの私の手にはなかった「岡本太郎の生命力」があった。今ほどではないがそれをヒントに生きる歓びを模索し、一応突き止めた。そして夏休みに入ったのだが、今回は2か月ほど早くやってきて最近は応急処置に明け暮れている日々だ。今回は本題でも取り上げたように絶対的な生命力と愛に依存しようとしている。最近の方々はスティーブジョブスの欠片であるスマホと今世界を取り巻く黒い渦であるAIに依存しているそうだが、私は少々違うものに依存することにした。私の中の愛は家族愛だと信じていたら、この1か月間で様々な可能性があるのだと実感した。その一例として、最近私の母と弟がハマっているTBSドラマの「Tシャツが乾くまで」私もハマり、無事最終回を見届けることが出来た。ネタバレはしないが、愛の柔軟性や重要性に強く焦点を当てたものだと思った。痛烈なインパクトを私に残した本作だが、母と弟は「あのドラマはなんだったんだろう」といっていた。愛の形・理想はどうであれ、この抽象的概念は私たち人間にはみな必要だと思う。この仮説を胸に過去2週間ほど生きていたらこれまた新たな発見をした。この夏父と行った大原美術館で見たパブロ・ピカソの「頭蓋骨のある静物」が強く印象に残っており、ピカソの人生・哲学についてのウェブサイトを読んでいた時、なんとピカソも愛に依存していたのだ。そして「ピカソを超える」と宣言していた岡本太郎も著書「自分の中に毒を持て」で愛の重要性を説いていた。さらに最近亡くなったことが公表された草間彌生も「あなたにとっての神様は誰ですか」と記者に聞かれた際、笑顔で「私」と答えていたように、著名な芸術家たちの中に何か共通する物があるのだと感じた。草間彌生の言葉を借りると「愛以上に強いものはない」のである。このように言ったら宗教のように聞こえるかもしれないが、これは事実だ。宗教という器の中に愛が入っているように思われがちだが、実は愛が宗教の器を包括的に、無意識に抱きしめている「空気」のようなものだと思えば非常に興味深い。この宗教のプロトタイプを信じることを土台に、芸術家、また生命を謳歌している人々は歩んできたのだ。この実例を見る限り、愛などの普遍的な概念の重要性、確実性がうかがえるのではないのだろうか。
相対的な判断で己を追い込むことや絶対的な価値を信じることにより心の安定を図るのも良いが、最も我々人類に必要なのはこれらの二つの一見対照的な要素の調和である。ここでは「調和」の定義は岡本太郎の「形のいいように統合するのではなく、混ぜないまま不協和音を奏でる状況」とする。揺るがない絶対的な核心・コアの要素に依存しながら、それで満足せず自己の中で戦争をはじめ、葛藤するのが良いと思う。世界的な建築家、安藤忠雄氏は満足することや物事が完成してしまうことの危険性を説いている。ここまで聞いて理解がしがたいと思うのならば、椅子のねじとして考えてみてはどうだ。椅子のねじが緩んでいつも座った時「ギィッ」と音がして「いつか直さないと」と思うものの、直さないことによって生活の中にハングリー精神が再度復活して、日々の日常を刺激してくれる。安藤忠雄氏は東京などの完成形に達してしまった都市は衰退していくまでだが、大阪などの未だ進歩していくところはいつまでも強いと、いかにも大阪ファンのような発言をしている。「安藤忠雄が言っているだけだったら信用できない!」という方々にはスティーブジョブスも同じようなことをスタンフォード大学の卒業式スピーチでいっていたとわかった瞬間、口をつぐむだろう。このような永遠の「Stay Hungry. Stay Foolish」の精神をもって正気と狂気のはざまで葛藤するのが重要である。この工程で美しくもがくことで生命力を実感できるだろう。人間は車だと考えると、ホルムズ海峡の閉鎖などはないので半永久的にガソリン・生きる欲を注ぎ込むことが出来るのである。私たちは自分の車で最も長く、美しい景色をするのがどのようなことを信じようと重要なのではないだろうか。