認識

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 当時の近代体育は、必ずしも美しさを追求するものではなく、軍事教練として始まった。そして、いかに効率よく生産力を上げるかということこそ、近代体育の隠された主題だった。そのため、オリンピックなどの身体の祝祭を測る物差しが、国家の生産力を測る物差しと寸分も違っていなかったのである。だが今、学問的な定義において、スポーツはすべて芸術ではないかという問いが極めて重要になりつつある。人は何のために生産するのか。消費するためである。生の時間をいかに豊かに過ごすかが、消費の内実であると誰もが考えるようになってきたのだ。生産第一主義から消費第一主義への移行である。

 社会が消費第一主義へ移行したものの、従来の社会制度や価値観を刷新できていないがために、多様性を十分に発揮できていない今の社会は問題だ。

 第一に考えられる原因は、そのものごとがある意味とその効果を見つめ直さないまま、残っているものが多くあるからだ。中学の頃の体育で、一つめんどうな種目があった。集団行動である。毎年、一学期の最初はこれをしなければならず、合格するまで、他の種目を体育でできず、何時間もそれだけをやり続けないといけないという、過酷なものだった。集団行動には、協調性を身につける、周りを見て行動する、規律性を身につけるなどの目的があると先生に最初言われたが、終わった後、あまりそれらが身についている実感がなかった。それはやはり、皆が意味がないと最初から思っているから、そして、強制されているため、何かを学ぼうとする姿勢がないから得られないというのが大きいと思う。だから、集団行動よりも、運動会の方がよっぽど皆協力し合い、終わった後はクラスの雰囲気も変わっていた。強制されたり、これを得ようと思ったりして行動するのではなく、何か同じ目的をもってそれに向かっていくというのが、最も協調性と自分で考える力をつけられるようになるのではないだろうか。自分で考えてものごとを行うということが何よりも大切なのだ。

 第二に考えられる原因は、安さや定着している制度に流されて、うまく価値を反映できていないからだ。日本では高度経済成長期に、国策としてスギ・ヒノキが大量に植えられた。そこから十数年は日本の木はとてもよく売れていたのだが、今では、競争相手が増えたことや、林業従事者が減ったことなどの様々な理由により、放置人工林が増加している。放置人工林は山の水を大量に吸うため、山の保水力がなくなることで、川の水位が減ってしまったり土砂災害が起こりやすくなったりと様々な問題がある。それを天然林に戻して解決しようというのが、僕も参加している西条伐倒団の活動だ。しかし、これにはまた新たな問題がある。それは、今伐倒団が扱っているスギは、種を得ることを目的に過去に植えられたもののため、枝分かれしており、材木として売れないということだ。そのため、ほとんどがバイオマス発電のチップになっている。ならば、バイオマス発電のチップにはほとんどが日本国内の木が使われているのかというとそうではない。七割ほどを輸入に頼っているのだ。これは、国内で伐採し、それを使うよりも、輸入した方が安価で済むことからそうされている。しかし、安さのみを見てこの方法を進めるばかりでよいのだろうか。日本には放置人工林の問題、そしてバイオマスのチップが必要だという現状がある。この二つを解決できるこの方法は、今のところ最適なはずだ。未来への投資という意味でもこれは進めるべきだと思う。

 たしかに、生産第一主義から消費第一主義に移行したとはいえども、いままで定着してきた人々の意識ごと変えることは難しい。しかし、人々の認識とは無意識下のうちにだんだんと変わるものではなく、それを意識したときに大きく動き出すものだ。よって、まずは人々に意識を向けるために、制度を変えていく必要があると思う。だから、従来の社会制度や価値観を刷新できていないがために、多様性を十分に発揮できていない今の社会は問題だ。