視覚系は【清書】

   中2 すりりんご(akimano)  2026年9月4日

 視覚系は、光を介して物の形を認知する。相手の位置や大きさ、広がりを「耳」で見ているはずである。形は物の方にあり、形は物の属性だという。無いものは見えない。見なくても触ってみればあるていど形が分かるのは、ものが本来、形を持つからだ。もう一つの見方に形は頭の中にある。その目は脳に連絡している。形を知るには、触覚刺激が脳に入り、それを使ってあらためて脳は形を構成する。目でも同じである。物が好んで形を使っているのではなく、われわれの頭が形と称するものを相手に押し付けている。形については、自分と相手とをともに考慮する必要があるから、話が面倒になる。目は有効な感触器であるが、あまりに有効すぎるため、有効でない点に気づかないことがある。大きさを知るという単純なことができないため、人の世界ではモノサシを売っている。モノサシがなぜ、便利かというと、視覚系だけにまかせておくと、大きさの絶対値がわからないからだ。これを幾何学に持ち込むと、比例が相似になる。相似とは、形は同じだが、絶対的な大きさはどうでもいい。われわれが「比例」とか「相似」を考えることができるのは本来、視覚系にそういう性質が存在するからだ。

 確かに、相対的ということは、私たちにとって便利だ。学校の偏差値、テストの点数など、日々の生活で比較しているものがある。例えば、買い物に行ったとき、分類上、同じ商品でも、値段で購入するか、しないかを決める。そこから、値段が高いものは高級や上等といった、なかなか購入しないもの、値段が安いものは外国産などの輸入品、特になるというイメージが生まれる。実際、値段が安いものは商品の在庫が少なくなっている。多くの人が特になると思い、購入しているのだろう。こう考えると、物を購入する時にはどちらが安いかどうかで選ぶことが多い。買い物だけではなく、勉強とスポーツでのライバルも相対的な見方である。相対的に見ることで、生活の中で、物事で何かが特に得られることがある。

 しかし、人生には絶対的なものが必要なときもある。仲良しの友達やいつも一緒にいるグループではテストの点数、各教科の偏差値の競い合いをすることがある。各学期の初めには必ず自己紹介カードをつくる。その中に、将来の夢の欄があった。人と合わせることが多い日常の中にも、自分だけの譲れないものがある。私は、将来、医療系の仕事につきたいと思っている。友達は保育士、学校の先生などと多種多様な仕事名が書かれてあった。また、一人一人が考えるスローガン、目標も全て、一致している人はいない。自分の目標や夢があると明るく楽しく生きることができると考える。このように、絶対的なものがあることによって、自分の生きたい生き方、歩みたい歩み方ができる。そして、周りが変わってしまった時、変わらずに生きることができる。

 確かに相対的なものも、どちらも大切だ。しかし、できあがった規則をなんとか守ろうとすることよりも、実態に合わせて変えていくことが、真に規則を生かす道であるという名言があるように、絶対的なものも良いが、他人と協力し、判断しながら生きていくことが大切だ。私はよく、祖父から、友達は選びなさい、といわれる。私は、祖父から言われたように友達を選んできた。その友達は幼稚園の年少からの友達だが今もあって遊ぶことがある。独善的にならない選択をすることが大切だ。熟慮断行という四字熟語がある。十分に考えて判断して行動するという意味だ。私はその言葉からも自分、人と物事を判断することで、人も物も永遠に自分の生きる道につながるのではないかと考える。