気づくことの大切さ

   小6 ひなすみ(akohina)  2026年9月4日

 私たちの身の回りには、一見すると何の役にも立たないように見えるものがたくさんある。公園にある噴水はいい例だ。噴水は、飲めない水で、浴びることもできない水である。さらに、何も潤さない。だが、それがいいのである。都市住民などは、すべてが役に立つという環境に慣れてしまっているので、何にも役に立たないものが出現すると、衝撃を受け、とても困惑する。そして、その困惑が新たな文化を造るのである。ドイツのミュンヘンでは、コインの投入口がない自動販売機が出現したのは、最近のことである。当初、ミュンヘンの住人は苛立ってその自動販売機を叩き壊したが、次の日、壊された自動販売機が元通り投入口のないまま立っているのを見て、やめたそうである。このように考えると、私たちの身近にあるものの中にも、すぐには役割が分からないものがあることに気づく。では、一見すると意味がないように見えるものには、本当に価値がないのだろうか。

 私は、勉強机の上に置いてある植物や、公園にある銅像を思い浮かべた。例えば、私の勉強机の上には、ポトスという植物ある。これは、勉強をするために必要なものではない。植物がなくても、教科書を読んだり問題を解いたりすることはできる。しかし、机の上に緑があると、目に入ったときに少し気持ちが落ち着いたり、勉強の合間に心を休めたりすることができる。ちなにみ、植物などの緑色は、心身をリラックスさせる効果があるそうだ。これらのことから、植物は勉強そのものに役立つわけではないが、勉強する人の心を支え、生活を豊かにしているのではないかと考える。

同じようなことは、公園にある銅像にも言える。銅像がなくても、公園で遊んだり散歩したりすることはできる。しかし、銅像があることで公園の雰囲気が変わり、景色に趣が生まれる。そこを訪れた人が銅像を見て何かを感じたり、その公園が印象に残ったりすることもあるだろう。このように、植物や銅像は、直接的に何かの役に立つわけではなくても、私たちの心や周囲の環境に影響を与えている。では、なぜ私たちは、このようなものを「意味のないもの」だと思ってしまうのだろうか。それは、それらが私たちの日常に自然に溶け込んでいるからではないだろうか。普段から当たり前のように存在しているため、その役割を意識することが少ないのである。しかし、もし突然それらがなくなれば、私たちは初めて、その存在が自分の生活に与えていた影響に気づくのかもしれない。

 私は、すぐに役に立つかどうかだけで物事の価値を判断するべきではないと思う。一見無用に思えるものにも、人の心を豊かにしたり、生活にゆとりを与えたりする大切な役割がある。「無用の用」という言葉のように、意味がないように見えるものにも、私たちが気づいていない価値があるのだと思う。これから私は、物を買うときは、「意味がないものは、いらない。」と考えるのではなく、「意味はあるけれど、今の自分には必要ない。」と考えたい。