文化的カプセル(清)
小6 わかば(akahime)
2026年9月4日
日本人は世界中どこに行っても、日本の言語、考え、食べ物を身にまとって動き回る。日本文化に包まれることで、安心するのである。そのように、私にも異文化がある中で、同じ文化を持っている人たちと固まってしまった経験がある。
私が毎週かよっている、水泳教室のことで、そこには7・8人の外国人が在籍している。日本人は外国人に話しかけないし、外国人も日本人に話しかけない。お互いに一線を引き、関わらないようにしていて、あまり接点が生まれない。実際はそんなことはないのだろうが、外国人に対して、私たちはなんとなくうるさいという怖いイメージを持っている。私は英語を話すことができ、得意だと自負しているが、そういう問題ではない。刺激を求めているわけではなく、平穏に過ごしたいだけだから、わざわざ話しかけなくていいや、という雰囲気にお互いなっている。その人たちと同じ雰囲気の人はクラスメイトにいるが、なんとなく外国人だと話しかけづらい。それは外国人だからという理由の一つに限り、それほど日本人は身内意識が強く、仲間内で固まろうとする、保守的な習性があるのだと思う。又、外国人がこわい、というのは自分と分類が違うから怖いということであり、違いを見つければ見つけるほど怖くなる。それは人間の本能的に警戒するということで、仕方がないことなのかもしれない。しかし、人柄を見ないうちに、先入観でレッテルを張ってしまうのは相手に不快感を与えてしまう可能性もある。なんとなく黒人差別と似ている気がする。黒い肌から防衛本能から連想されたイメージで独自の人間性を否定されていたのだと私は思う。それと、私たちが外国人に接しているときの考え方は似ているのかもしれない。
逆に、学校生活では外国人を受け入れられた経験がある。ALTという、Assistant Language Teacher (外国語指導助手)という外国人の先生が来たときのことである。その人とは良く話す。授業以外でも
「Hai!」
などと親しくあいさつをする。それはなぜだろうか? 私の解釈だと、一人だからだということと、相手が積極的だということが大きいと思う。相手が一人だから、自分たちが余裕をもって迎える側としていることができる。そして、ALTの先生は、中を深めて楽しく授業をするため、それを目的として学校に来ていて、仲良くしたいという前のめりな状況で、文化的カプセルを脱いでいるから、早く仲良くなれたのだと思う。逆転して、私がALTの先生のような立場だった場合を考えてみた。私のクラス全員が外国人で、私一人だけが日本人だったら、他の人たちがグループになって固まっている中に入っていくことはできずに、委縮している気がする。私たちが仲良くできているのは相手が自ら日本に近づいていて、積極性があるからで、助けられている部分が大きいのかもしれない。やはり、迎える側だからといって、決して文化的カプセルの被膜から出たわけではないのかもしれない。どの状況においても、日本人は外国人というだけで、徒競走でいう、まるで一人だけ大分後ろからスタートして、仲良くなるためのゴールまでの距離が長くなり、なかなかゴールできない、みたいなビハインドを負っている状態にしてしまっているのだと思う。
文化的カプセルは、自分の文化と異なった文化に属しているというだけで、偏った見方をしてしまう色眼鏡のようなものだから、人間にとて、人との異文化交流を妨げるものである。私は、文化的カプセルを脱ぎ、本質を見ることができるような人間になりたい。