自分で判断し決断し行動する (清書)
中2 あさくに(asakuni)
2026年9月4日
要約:我々ホモ・サピエンスは他者に流されやすい。自分の意志で決断し、行動するのは案外容易なことではない。大衆に依存することもある。その方が楽なこともある。依存すること自体が悪いのではない。これはどうしようもできないのだ。絶対的な欲望がない限り、流されてしまうのだ。しかしながら、再度言うが、時間は足を止めてはくれないし、厳しい運命を突きつけてくることもある。このような厳しい社会に突きつけられるこれからを背負っていく子供たちの教育のほとんどはこの問題の解決策の一つも提示しない。それによって小学生だけでなく、大学生や新卒社会人などもテーマ化された指示がない限り、実質無能といっても過言ではないのである。その根本的原因は単純に慣れていないからだ。
自分で判断しすることの最大のメリットは主体的に行動することによって自分の主導権を持つことが出来るからだ。「何を当たり前なことを言っているのだ」と不思議がる方もいると思うが、逆に問いかけよう、「じゃぁなぜ皆さんはそこまで社会の中で自立しているように見えないのか」と。ここで私が提示したいのは日々の生活の中での自立心の育成は前提のもと、社会という大きなドメインの中でのアイデンティティの確立である。最近私の身内含め、多くの若い方々が自分に自信を失ってしまっている。「僕はこれに選ばれたけど、実はそこまで能力もないんだよ」などとボソッと不平を漏らす。このような現象を身の回りで目の当たりにするにあたって、とある昔の思い出が脳裏をよぎったのである。つい最近、「推し活」や「オタク」などという概念が大衆化し始めたが、まだ私の周りにそこまで影響力を持っていなかった2022年から2023年の間に私は俗にいう「鬼滅オタク」と化していたのだ。今のように物語の核心に共感・影響され、作品を好んでいたのではなく、あの頃はただただ無条件に物語性全般が幼少期の私に刺さったのだ。それはまるで爆風によって大破されたガラスが体中に刺さり、ガラスの破片が体内に入るように、アニメ「鬼滅の刃」は当時の私の構成要素の大部分を占めていたのだ。当然ながら漫画とアニメの両方を見て、「生殺与奪の権」などの抽象的な単語も学んだ。鬼滅愛が「永遠の一年」の最終段階に突入につれて愛と欲が膨張してき、私は眼に入るありとあらゆる鬼滅の刃関連ガチャガチャを回した。幸か不幸か、2024年に入るとこの個人的ブームは幕を閉じ、振り返るとあれは夢だったのでないかと思うほど、全てが冷めてしまっていたのだ。いつか調べたポケモンの生みの親であり、ゲームフリーク代表取締役社長である田尻智は子供時代の時、虫取りに夢中であったらしい。そういえば任天堂の代表取締役フェローである宮本茂も子供時代は自然の中を駆け巡っていたそうだ。そう思えば、鬼滅の刃も私の中ではこのような部類に入り、私の少年期を彩った出来事なのだ。人間はもうちょっとこのような過去の楽しかった出来事などを糧に前に進み、自分を肯定し、自分を誇りに思っていかないといけない。もし、それが他者との対比によって自己肯定感が悪化しているのならば、最終的な判断として誰とも比べなければいい。もしもそれも出来ないのであれば、抜きたい人の2倍、3倍の努力をして、正々堂々と個人的勝利を勝ち取っていかないといけない。このような考え、または「フィルター」を通して前述した私の身の回りで起きている現象を見ると、非常に皆さんが生半可な考えの持ち主だと思う。答えは「社会逃避」か「開き直り」しかないというのに、皆さんはただただ現状を呆然と眺め、立ち尽くしているのだ。当然、「ノルウェイの森」のワタナベの様に一旦止まって熟考するのも悪くはないのだが、「生殺与奪の権」を社会に渡し、自分はただただ大多数の思うままに流されているのは非常に滑稽である。この当たり前を超越したその先に、より輝かしい自分が待っているのだと思う。
しかし、他人の意見を取り入れることも生き残り、社会の中で進化し続けることには不可欠だ。私は前段落で成長するという工程での「方法」を部分的に解説していたと思うが、今回は安住しない方法を解説することになると思う。最近私は芸術家の人生について度々調べていたので、そのような実例しか頭に思い浮かんでは来ないが、一つの例として20世紀のスペイン人の芸術家である、ジョアン・ミロを見てくれないか。ミロは他者の技術を回収して、自分のものにするのが得意だったそうだ。もちろんパブロ・ピカソもそうだが、今回はそれを度外視させていただく。彼はデビュー当時は写実的絵画を多く書いたが、そこから抽象画へといき、その後シュルレアリスムへと移ったのである。驚くべきことにこの3フェーズで終わったのではなく、ちょこちょこキュビスムを混ぜたり、自分の独創的な記号を確立し、ますます己に挑戦していった。これは多くの購入者を飽きさせないためのものかもしれないが、私はその他に、自分を楽しませるためにどんどん変化し、過去の自分を超越しているのだと思う。そうだ、我々は世のため、人のために働いていると偽善者は言うが、本当は自分が自分を感心させようとしているのではないか。これは非常に複雑に見えるかもしれないが、客観的にこれを遠くから見たときには案外すっきりしていると思う。人間はどのみち止まるか進むかという二つの選択肢しかないので、その理由づけにもう一つの要因が追加されたと認識すればよいのだ。意外かもしれないが、私もこの方法を採用している。物事はもちろん私の思い通りには進まない。もちろんそれに不満を持って、遺憾に思いながら生きている。しかしながら、いつまでもこれが心の奥底にある鉛のような働きをしていたら、心が想像もしない手も届かない溝に落ちてしまいそうになる。そのような時、私はただただその鉛を「自分が満足するまで行動する」事によって、化学反応を起こし、溶けることを願っているのだ。要するに、手法はどうでも良いのだが、最重要なのは自分に飽きないことである。飽きないようにするためには刺激が最も手っ取り早い方法だ。私は現在学校の授業で保健をやっており、時々薬物中毒などのグロテスクな内容を解説している動画も見させられる。もちろん過度な刺激や恐怖におびえる時もあるが、これは「灯台下暗し」のような働きをしてるのかもしれない。諺でもいうように、もっとも当たり前な事も時折見失ってしまう。毎日の自分の健康・存在を当たり前に思うのではなく、尊いものとして認識するのだ。唐突な知らせだが、前文は完結しているように見えるものの、まだ不明点などが存在していると思う。これは私にも分からないし、読者の皆さんにもわからないだろう。だが、確かに動物的直観を信じたら存在する。この様な誰の心にも潜む一種のダークマターを解明するべく、私たちは前へ進んでいくのではないか。
自己で判断して自分の生殺与奪の権を所持するのも他者との意見交流を図り、進化するのも良いことだが、もっとも重宝され、考慮されるべき事実は皮肉なことにもミロなどの芸術家の「いいところを盗む」能力を吸収することではないのか。これは大切な核心を切り抜き、自主的に己に導入することである。多種多様な側面から考えてきた今回の問題だが、一周回って自分の原点ともいえる意見に戻ってくるのは非常に面白い。最近自分でも薄々感じているのだが、多くの場合解決策は単刀直入なのだ。ヨシタケシンスケの絵本、「あつかったらぬげばいい」のように私たちは「馬鹿正直」に生きてゆけばよいのではないか。恐らく子供に教えるような当然のことを大人になって忘れて、改めて絵本に感動するのは非社会的常識を度忘れしてしまうのが理由なのであろう。私も社会制度の中では子どもであるので断言はできないが、大人に近づいていく、社会の一員と化していく工程の中で多くの条件を人は突きつけられる。それは自分でつけているのかもしれないし、運命的なことかもしれない。このような多くの条件を満たす行動に出るのは非常に困難であり、まだ分からなかったら、「ノルウェイの森」のワタナベや私のように一時的に非常に混乱することもあるだろう。「壁があるから」というだけで、打開するべく頭で物理的に割ろうとするのではなく、一回立ち止まってみてはどうだ。私の叔母が「あなたはこれを呼んだ方が良いわよ」と言って初めてすすめられた松下幸之助の「道をひらく」でも書かれていたように時間を与えればそのうち見えてくるのかもしれない。今生きている人々は皆困難・混乱の中かもしれないが、もっとも恵まれていることは過去の偉人たちから学べる環境が整っていることである。なので、周りに流されることも知りながらも自分で進化の模索をし、自主的に自分を変えることが一番確実であり、面白い人生の歩み方ではないだろうか。